昔はここに牧師館があったそうです。牡丹の花。
礼拝堂で、讃美歌を歌い、祈って帰りました。
教会員さんともおしゃべりwithマスク
4/26(日)の徳山礼拝堂…の中のセルフフォトです。
相変わらずオルガンに置いた写真機でパチリ。
4/26(日)の防府礼拝堂です。
礼拝堂で、讃美歌を歌い、祈って帰りました。
教会員さんともおしゃべりwithマスク
4/26(日)の防府から帰宅後の徳山礼拝堂の外です。
コンクリートの隙間から、パンジー。
この命の力に感銘を受けました。
シオン教会(柳井、徳山、防府、六日市)では、5/6まで
「礼拝の公開を中止」する措置を取っています。
これは、「礼拝堂にて、一同に会する礼拝は中止」し、
皆さまには「ご自宅ないしそれぞれの場所」で礼拝を守って頂くということです。
慣れ親しんだ礼拝堂で、親しい方々と会することが出来ないことは
まことに辛いものです。しかし今、感染症対策の最前線に居られる方々に、
一層の負担を掛けないためにも、自宅において祈りを捧げることを
大切と思い、この決断にいたりました。
「ご自宅ないしそれぞれの場所」で礼拝をおこなうための「手引き」は、
教会員各位には今週末に届くよう、手はずを整えています。
またご希望の方には同様のものをお送りいたします。ご連絡ください。
感染症対策にあたっておられる方々、
ライフライン保持のために働かれている方々、
介護職、教育関係職、為政の現場に居られる方々、
お一人おひとりの働きを覚え、祈ります。
本日の説教要約は下記の通りです。
【ルカ福音書24章13-35節】
「復活」とは、主のまことに尊い御業です。これは「やがて」の事で言えば、私たちに「永遠の命」を約するものです。言い換えれば復活は、「懐かしい方との再会の希望」となるのです。「近しい」事柄で言えば、復活は「再び立ち上がる」こと。立ち上がれないほどの深い挫折や失望の渦中にあっても、主がわたし、あなたを支えるのです。ことに「復活節」と呼ばれる最近の聖書は、その「挫折の人間」像がある。「エマオ物語」も然りです。
二人の弟子がエルサレムからエマオに向かっています。時間帯は日中から夕方にかけて(29)です。夕方、黄昏時、それは何も時間帯のことだけではないと思います。二人の弟子たちの心境も「黄昏時」に重なると思います。旧約のイザヤ53章の「メシア預言」の中「暗くなってゆく燈心」のような心境だったのでしょう。前段落で主の復活を聴いても「たわ言」と受け止め、エルサレムを出て逃亡の最中だったのかもしれません。主への信頼の揺らぎが顕著な二人の弟子。主はそのような弟子たちと歩みを共になさいます。
主と弟子たちとは言葉を交わします。弟子たちは主を「イスラエルの解放者(21)」と、誤解しています。しかし主はそんな二人の弟子の言葉を聞き、否定しません。しかし主は二人に、聖書全体に渡ってご自身について書かれていること(含む、イザヤ53)を解き明かします。その瞬間こそが「心、燃ゆる(32)」時でした。周囲の状況によって「不安、暗くなる」は人間の常でしょう。主はそんな弟子たちを知り、関わって下さるのです。
この二人の弟子たちはエルサレムに帰るや否や、主を亡霊と思って恐れます。他の弟子たちも然り。人間の「浮き沈み」の心を表すものでしょう。正確に言えば「沈みっぱなし」の姿です。しかし復活の主は、弟子たちが「沈む」度に現れ、力を添えて下さる。そのことを私たちは今週の「福音」として受け止めたいのです。「私たちを沈ませる」こととは、一体何でしょうか。具体的な事象や、形容しがたい思いがあると思います。「再び、立ち上がる」とは、自力では難しいことでしょう。主が私たちに心を添えて下さいます。