7/25の徳山の礼拝堂です。
気が付けばもう、7月も月末となりました
来週は「平和礼拝」が、各チャペルで行われます。
今週、来週の予定は以下の通りです。
7/28 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝
今週の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
■ ヨハネによる福音書6章1~15節 (新共同訳聖書、新約174ページ)
■ 説教 「全ての人を満たすために」
「五千人の給食(1-15節)」がこの日の聖書です。「五千人の給食」という伝統的呼称は、主の思いを表していないと思えます。聖書は「男たち(10)」を数えていますが、実際には万を越える人々が居たのです。この話の解説の一つは「主が、小と見なされるものを祝福し、用いる」ことです。「女性、子ども」はこの世で「小」と見なされていましたが、主はそのものをも数え、用いて下さるのです。この福音書で特に注目したいのは「主の人選」です。
日課には「アンデレとフィリポ」が登場します。この福音書でアンデレは、家族への最初の伝道者、フィリポは友人への最初の伝道者。当初は、み言葉に生きる熱意を感じさせた人々でした。ところがここでは「み言葉への信頼はない」のです。目前の群衆の数に圧倒され、「足りない」「少量では役に立たない」と、ある意味で現実に根差した発言をするのです。しかし主はその中で、「信頼がない者」を用い、全ての人を満たす源となすのです。
「浅い信仰」「不信仰」こそ用いられる…伝統的解説です。しかし福音書は、他との違いを記します。「過越祭の近く」に行われたとの記述です。出エジプトの旅は、飢え渇きを断続的に訴える民と、対処するモーセたちの物語との側面もあります。空腹を満たすが、数刻後には同じことを訴える人々にモーセは疲労します。この給食も同様です。だから福音書は「真の満たし」との意図で「私は命のパン(6:35)」との主の言葉を記載するのです。
実際、年月は異なりますが主は、ユダヤの暦の「過越祭」で十字架におかかりになられました。しかし復活をして、今なお私たちに「命のパン」としてのみ言葉を下さるのです。み言葉への確信は、時の流れの中で移ろうものです。熱意に生きた時と、その心が時に薄れる時があります。あの「アンデレとフィリポ」のように。しかし主は、私たちの熱意が小さくなったとしても、変わらずに私たちにを用いられる方なのです。そこに気持ちを向けたい。