7/4(日)15時半からの防府礼拝所でした。
こちらは、7/3(土)15時からの柳井礼拝所でした。
会員が足の痛み除去のための手術、療養中です。その方のご息女が
お支え下さっています。
兵庫県3教会を訪問できました。
礼拝堂です。
こちらは神戸教会。新神戸駅から地下鉄で行きました。
駅からの道は、急坂でした。「坂の町」神戸を実感しました。
今週、来週の予定は以下の通りです。
どちらの集会・礼拝もお気軽にお尋ねください。
7/7 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
■ マルコによる福音書6章6後半~13節 (新共同訳聖書、新約70ページ
■ 説教 「思い通りにならない日々の中で」
今年の春、約60年ぶりに「死海文書」が発見されました。検証の結果、発見されたのはゼカリア書の一部でした。内容もさることながら、見出された場所は「頂上からロープを吊り下げて行ける横穴洞窟」でした。かつて、人々の生活領域を離れ、清貧の生き方を模索する集団がいました。主はその生き方から多くの示唆を得られましたが、むしろ活動の場は町中に求められました。そして日課では、12人弟子を組にして、町中に派遣されます。
なぜ「2人組」なのか。聖書の中で「2人」を探すと、いくつかのことがわかってきます。まず「体の支え」のためです。コヘレト書には「一人よりも二人が良い(4:10)」と示されています。また「心の支え」のためとも言えます。創世記に「二人は一緒に歩いて行った(22:8)」とあります。佳境を控え父は子を、子はその父を支えたのです。歩みの道のりに於いて、中途で倒れて欲しくないとの思いが主の心のうちにあるのです。だから「2人組」なのです。
無論、派遣された先で全てが思い通りにはなりません。その時は「足の塵を落とす(11)」絶縁が示唆されます。冷たく見えますが、実際の所はどうか。弟子たちの成り形(8-9)は、一言でいえば見ずぼらしいものです。初見の対応で「迎え入れず、耳を傾けない」ことは、成り形に由来すると思えます。求められない所ではなく、求められる所に出てゆく示唆です。ここでの主は、強固な伝道スピリットではなく、緩やかで融和的な伝道を語るのです。
強固でなく、緩やかな伝道を語った背景には、当時の社会を主が注意深くご覧になっていたからだと思えます。律法成就の義務と、植民地支配の中の苦しい生活。主も一人の人として、共に辛酸を味わったのです。弟子たちは派遣され、帰還し、主のもとで休みます。基本的に私たちは、この世での歩みは一人です。しかし教会が大切にした言葉には「主が共に歩む」ことです。普段の生活に戻る、私たちの歩みに主が支えを下さいます。