防府の梅。今年も咲きました。
柳井の屋根。ちょっとサビが目立ち始めました。どうにかせねば。
徳山の鐘。朝8時になります。
教会の予定は以下の通りです。
2/3 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
2/4 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時 防府チャペル礼拝
2/6 火曜日 六日市チャペル礼拝 週報を用いた家庭礼拝です。
2/10 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時 防府チャペル礼拝
2/13 火曜日 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝です
2/17 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
2/18 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時 防府チャペル礼拝
説教の要旨は以下の通りです。
■マルコ1:21~28(新62)
■ 説教 「ここが居場所」
マルコ福音書の「ナザレのイエス」に関する記述は、当然ですが、宗教色が強いものです。それは例えば、「(「北風と太陽」)の太陽」という意図です。今日、二度登場する「権威(22.27)」の言葉で明らかにされます。「権威」と「権力」は、似て非なるものと言えます。権威は自発性、権力は強制性を伴います。主は「会堂長(5:43)」の会堂で示します。
「会堂」は、町村の一施設です。出身地でもない町の会堂で「教える(21)」ことから、主の教え方や内容は、一目置かれていたと見做せます。その比較対象は律法学者(22)でした。主の教えには「権威」があったのです。厳密には、主ご自身ではなく、その背後の神さまを感じさせる教え方でした。その「権威」は本来、律法学者が持つべきものでした。
法律とは、秩序の維持を通し、個々の生活を支えるのが本質と思います。所が律法学者は、罰則を強化し、人々を区分し、格差を拡大しました。会堂にはこの時「汚れた霊の人(24)」がいました。この人こそ、律法学者の「権力」の被害者でした。「病」により「家族/実家と区分され、罰を課せられ、孤独」とさせられたのです。主は「関わ(24)」ります。
聖書は「権威」を、本来は律法学者に帰すると理解しました。しかし彼らは「権力」と替えたのです。主も弟子たちも、やがて「権力」に悩まされ(マルコ2:23)ますが、屈しない主は「神の権威」を伝えました。「北風と太陽」の話を当てはめるなら、律法学者は北風、主イエスは太陽、昔も今も、人々を照らすのです。主の暖かさの中に、私たちもいるのです。