2024年7月30日火曜日

7/27.28 メダカ、柳井、防府

 

7/28(日)防府の礼拝堂です。午後三時の礼拝堂。

徳山の玄関。メダカの鉢も茹で上がりそうな温さ。

7/27(土)柳井の礼拝堂です。こちらも午後礼拝で、なかなかの暑さ。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

8/3 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

8/4 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

8/6  火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝 

8/10 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

8/11 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

■ ヨハネ 6: 115 (174)

 説教              「備えられる必要」 

    ヨハネ福音書は、他との比較で「過越祭」という祭りを主の公生涯中、3回登場させます。出エジプトの要点は「神さまの導き」ですが、それを主は様々な形で示されます。ちなみに1度目は2:13「金銭でなく」、2度目は本日「神は養い」、3度目は「同伴する形で」となります。大きなテーマですが、今日の箇所に沿う形でみ言葉を聞きたいと思います。

 

 まず、ヨハネ福音書のみが「大麦のパン(9)」と、麦の種類を特定しています。列王記下4章「エリヤの給食」の「大麦のパン」をなぞり、主をいにしえの預言者に重ねます。また大麦は、旧約では「小麦」に「次いで」登場します(サム下27等)。つまりヨハネ福音書の主は、預言者の再来でありつつ、穀物の価値が「二番目の」大麦を用いるとしています。

 

  比較の続きですが、ヨハネ福音書のみが「解説」を記します。それによれば、「主ご自身をいのちのパン(35)」と位置付けます。時間の経過で無くなる「パン」でなく、常に共にある「主」を第一とします。そのために、あえて「二番目の」大麦を登場させます。ただ、主のお気持ちは、弟子たちに通じたのでしょうか。その弟子たちの姿が私たちに重なります。

 

   フィリポは「200デナリのパンでは足りない(7)」。パン一斤が200円として、1万斤のパンでも不十分とします。アンデレも「5つのパンと2匹魚」でも「何の役にも立たない」と言います。しかし主は「ごくわずか」のものを大きくし、大勢を養います。日々の歩みにて、有形無形の養いを思い起こしましょう。大局の中で主に導かれていることも覚えましょう。


2024年7月21日日曜日

7/20.21柳井そして防府

7/20(土)柳井の礼拝堂。

いつもは風景だけなので、

このようにしてみました。

 7/21(日)防府の礼拝堂。

午後三時の礼拝堂は、息をするだけで汗が噴き出ます。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

7/27 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

7/28 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

7/30  火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝 

8/3 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

8/4 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

■ マルコ 6:3034 (72)

 説教              「ひと時、休みなさい」 

    今日の箇所は、6章前半の「弟子の派遣」を受けた話です。「派遣された世の中」は、私たちが暮らすこの世界線とも重なります。さて、「汚れた霊への権能(7)」を託された弟子たちは、「神の国の接近」を教え(30)、「病の癒し」を行い(30)ました。反応(結果)は、その後の話です。清貧を象徴する旅の中、弟子たちは主のもとに帰ってきたのです。

 

既に主の基には「教えと癒し」を求める人々がいました。そして人々は、休むために移動(32)し始めた弟子たちを見止めます。人々は、弟子たちの努力した過去を思い、追います(33)。ここまでは、主の奇跡と弟子たちの努力です。しかしなぜ、主や弟子たちの働きが求められたのか。主はここで、「在所、故郷を離れて」求める人々の背景を思うのです。

 

人々の背景は「飼い主のいない羊(34)」第一朗読の状況が実情でした。本質論では、民衆は在所の会堂に属します。しかし既存の「飼い主(宗教者)」への信頼が低下したのです。従来ならば、例えば「熱病は神罰(レビ26)」で、律法に則った拠出金/物と祈りがありました。一方で主は、既存の制度を超えて、神さまの愛を述べ、罰は語りませんでした。

 

   「罰でなく愛、儀式によらない赦し」の原点は「深い憐れみ」。「他者の痛みを自分の悲しみとする」表現です。主は、これを人々や弟子たちに向けたのです。「自己責任の提起と解決」が、「当時の宗教者」が目指す世の形でした。その中で「飼い主」を求める人々は、主と弟子たちに希望を見ます。私たちもまた、今の世界観の中、主に希望を見出したい。



2024年7月18日木曜日

7/13.14 防府、柳井

 

 7/14(日)防府礼拝堂の献花でした。

 造花…? たしかにそうですが、お心のこもったものです。

 7/13(土)柳井の礼拝堂でした。

 さすがに猛暑、夏本番でした。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

7/20 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

7/21 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

7/23  火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝 

7/27 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

7/28 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

マルコ 6:1429 (71)

 説教              「今の時代の、ただ中に」 

    「知れ渡ったイエスの名(14)」は、「会堂長 (5:21)」の評判と見做せます。「奇跡の力(14)」が、癒しに用いられた一つの力でした。「出会い」も、もう一つの力でした。宗教者たちが病の方々に、律法や儀式を用いたなら、イエスは人として出会っていったのです。

「奇跡」は結果であり、主が語った本質は「神さまが共にある」との指針だったのですが。

 

    さて「福音」は、本日の箇所の「位置」です。「1/4領主」ヘロデは、洗礼者ヨハネからの諫言を思い出していました。王はヨハネを尊敬(20)していました。ただ「略奪婚」に、レビ20:10に基づき諫言を受けていました(18)。そもそも「1/4領主」の呼称は、名声失墜を意味していましたが、逆恨みした妻へロディアの思惑が、名声を悪名と替えたのです。

 

    へロディアは、娘の踊りの褒美にかこつけ、ヨハネを殺させました。自分の願いで命が召されることを承知していた(25)娘は、後代、「サロメ」と命名されます。現代にもこのようなニュースがあるかもしれません。本性を律せなかったヘロデ、口封じを行うへロディア、実行犯の娘。世俗的な「この出来事」が、主の活動に挟まれていることが福音なのです。

 

律法学者は法の順守を民衆に求め、為政者ヘロデには求めません。為政者はヨハネの諫言は耳の端に載せるものの、法を無視し、取り巻きへロディアは既得権益を保持し続ける。娘は忖度する。時代の質は「変わらない」中、聖書は「人々と向かい合った」イエスを語ります。今の時代の闇が、時の中で顕在化しています。その中で、主の光を照らしたい。



2024年7月1日月曜日

6/29.30 宇部、厚狭、下関、西宮

 

6/30(日)16時30分からの西宮教会の主日礼拝を、20名ほどの方々と共に行いました。


6/30(日)その少し前、10時30分からは下関教会の礼拝でした。
6/29(土)著作権的にアウトなのかもしれませんが、「推しの子」のパズル。厚狭。
こちらが厚狭教会。
宇部教会は取り忘れ。6/29(土)10時でした。

地区の講壇交換と、役務上の主任教会の礼拝の週でした。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

7/6 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

7/7 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

7/9  火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝 

7/13 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

7/14 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

■ マルコ5:3543 (70)

 説教                  「いのちに導く」 

   「会堂長ヤイロの娘」の蘇生と、「長血の女性」の癒し。二つの話が同じ時間軸で編集されています。「娘」と「長血の女性」を比べれば、「受ける者と得ていく者」が導かれます。「ヤイロ」と「女性」では、病める者を支える家族と、まさに病める者という側面があります。誰もが「家族」と「当事者」になる可能性がある中、聖書の言葉を聞きたいと思います。

 

   聖書上、12歳という年齢が示すことはありません。主イエスの12才の都詣で(ルカ2:42)も、祭りと主の誕生日が重なっただけです。「成人になった」節目の可能性はあります。しかし何歳であれ、親は子の成長を見つめるのみです。一方で病めるときは、案じます。今会堂長は、娘の死期を伸ばすことを願います。病む者の家族の祈りが、ここにあります。

 

   同じ時、一人の女性がいました。「長血の状態」が12年続く女性は、「汚辱(レビ15:25)」と見做されました。ヤイロが娘の成長を見つめた同じ年、女性は自身と向かい合ったのです。「共同、公共性」がはく奪(レビ15:31「隔離」)されました。今、この女性は「イエスの服に触れれば自分は癒される」と考えます。非難は考えず、イエスの服に触れます。

 

   主による癒しの前提には、懸命に生きようとする「長血の女性」と、生きるものを支えるヤイロがいます。いや、ヤイロは一旦、信仰を放棄しそうになりました。「先生を煩わすには及ばない(35)」と。逝去も、それ以前の長い病苦も、当事者や周囲を落胆させるのに十分です。ただ主は、命へ導くお方です。「地上の命と永遠の生」への道を覚え、生きましょう。