いつもは風景だけなので、
このようにしてみました。7/21(日)防府の礼拝堂。
午後三時の礼拝堂は、息をするだけで汗が噴き出ます。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。
7/27 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時 防府チャペル礼拝
7/30 火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝
8/3 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
8/4 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時 防府チャペル礼拝
説教の要旨は以下の通りです。
■ マルコ 6:30~34 (新72)
■ 説教 「ひと時、休みなさい」
今日の箇所は、6章前半の「弟子の派遣」を受けた話です。「派遣された世の中」は、私たちが暮らすこの世界線とも重なります。さて、「汚れた霊への権能(7)」を託された弟子たちは、「神の国の接近」を教え(30)、「病の癒し」を行い(30)ました。反応(結果)は、その後の話です。清貧を象徴する旅の中、弟子たちは主のもとに帰ってきたのです。
既に主の基には「教えと癒し」を求める人々がいました。そして人々は、休むために移動(32)し始めた弟子たちを見止めます。人々は、弟子たちの努力した過去を思い、追います(33)。ここまでは、主の奇跡と弟子たちの努力です。しかしなぜ、主や弟子たちの働きが求められたのか。主はここで、「在所、故郷を離れて」求める人々の背景を思うのです。
人々の背景は「飼い主のいない羊(34)」第一朗読の状況が実情でした。本質論では、民衆は在所の会堂に属します。しかし既存の「飼い主(宗教者)」への信頼が低下したのです。従来ならば、例えば「熱病は神罰(レビ26)」で、律法に則った拠出金/物と祈りがありました。一方で主は、既存の制度を超えて、神さまの愛を述べ、罰は語りませんでした。
「罰でなく愛、儀式によらない赦し」の原点は「深い憐れみ」。「他者の痛みを自分の悲しみとする」表現です。主は、これを人々や弟子たちに向けたのです。「自己責任の提起と解決」が、「当時の宗教者」が目指す世の形でした。その中で「飼い主」を求める人々は、主と弟子たちに希望を見ます。私たちもまた、今の世界観の中、主に希望を見出したい。