9/15(火)徳山チャペル礼拝堂。
献花は「ジンジャー」の花。
この花も強い香りです。礼拝堂全体に満ち満ちています。
腎臓がんと血栓の治療を終えた方と、礼拝を共にする恵みがありました。
けいとうの花が秋らしさを感じさせます。
8/31に営業を終えた「山賊」というお店に立ち寄りました。
大きな具沢山おむすびと、焼き鶏もも肉が名物でした。
もう10年近くも入店していませんが、懐かしい思い出がよぎります。
「傍示」とは、この店がある峠の名前なのです。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。
9/16 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝
9/19 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝
15時30分 防府チャペル 礼拝
9/23 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 家庭礼拝の予定です。
9/26 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
9/27 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
9/13(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
聖霊降臨後第16主日 説教
マタイ福音書18章21節-35節 「一万タラントンの赦し」
水原一郎
① 本日の箇所を読むと、多くの人は「赦しの話」と思うでしょう。ペトロもそうでした。「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。しかし、この問いを聞いた瞬間、私たちは別のことにも気づきます。私たちは赦せないのです。家族へのわだかまり。友人とのすれ違い。何年経っても忘れられない言葉や出来事があります。「赦しなさい」と言われるとき、私たちは限界に突き当たります。
② ペトロも、その限界を感じていたのでしょう。「七回までですか」と尋ねました。七という数字は「一つの区切り(創世記:天地創造)」という意味があります。つまりペトロは、「これだけ赦せば、言い換えれば、我慢すれば良いのではないか」と考えたのかもしれません。しかし主イエスは言われます。「七回どころか七の七十倍まで」。主イエスは、数えることが難しいほどの数を示すことで、数えることをやめよ、と言われます。赦しに上限を設けようとするペトロの考えを覆します。そしてここで気づかされます。このような赦しは、本来は、人間に属するものではありません。神に属するものです。
③ そこで主イエスは、一人の家来のたとえを語られました。その家来は王に一万タラントンの借金をしていました。現在の金額に換算することは難しいですが、当時の感覚では、一個人が返済できる額ではありません。何千年分もの労働賃金に相当する、とてつもない負債です。つまり問題は、「どう返すか」ではありません。返せないのです。家来は、そのような借金を前に、何も言えません。「返済できない」という現実だけがあるのです。ところが王は、その借金を免除します。しかし本来、借金は誰かが負担しなければ消えません。王はその損失を自ら引き受けました。家来が負うべき重荷を、自分で背負ったのです。それは後に十字架で明らかになる主イエスの姿を思わせます。ここで主イエスは、人は赦せない。けれども、神は赦してくださる、と語るのです。
④ ところが、その家来は仲間に会います。仲間の借金は百デナリオンでした。決して小さな金額ではありません。しかし一万タラントンと比べれば比較になりません。それにもかかわらず、家来は赦しません。首を絞めて返済を迫ります。ここで、この譬えの本当の問いが見えてきます。今日の聖書で主イエスがまず問うておられるのは、「あなたは誰かを赦せるか」ではありません。むしろ、「あなたは自分が赦されたことを忘れていないか」。その問いを突き付けておられるのです。私たちは誰かの百デナリオンはよく見えます。しかし主イエスは、その前に一万タラントンを見よと言われます。「丸太とおがくず(7:3)」。神の前で、私たち自身が赦された者であることを忘れてはならないのです。そのことを忘れるとき、私たちもまたこの家来と同じ姿になってしまいます。
⑤ だから主イエスは今日、この譬えを語られます。私たちを責めるためではありません。「あなたは赦された」と知らせるためです。しかも、安い赦しではありません。主イエスは私たちの負債を引き受けるために十字架へ向かわれました。神は罪を見なかったことにはされませんでした。御子ご自身が、私たちの負うべき重荷を担われたのです。私たちは今日も誰かを赦せません。怒りを抱きます。気づけば、百デナリオンばかりを見ています。しかし主イエスは今日、その私たちに一万タラントンを示されます。「あなたは赦された」と。「十字架によって赦された」と。私たちが赦す前に、まず私たちは赦された者なのです。その赦しを受けるところから、私たちの新しい歩みは始まるのです。




