秋月小学校のヤブはかなり深く、礼拝堂はそのため、
昼間でも静ひつでしたが、今日から朝日も見られるようになりました。
写真は、あえて電気を落として撮影しましたが、
そとの明るさが礼拝堂に届いています。
本日の、徳山C献花でした。
可憐な野の花と、6月の花であるアジサイの共演です。
本日は徳山はご多用の方が多く居られましたが、
それでも聖霊降臨祭の礼拝を聖餐式を伴って行いました。
礼拝後には愛さんをもって一週間の始まりといたしました。
柳井、防府ともに、お茶による交わりがありました。
来週も礼拝は、それぞれのチャペルで行われます。
いずれの礼拝にも、どなたでもご自由にお集まりいただけます。
5/31(日) 徳山10:45~
柳井10:30~
防府15:30~
5/28(木)には、
益田14:00~ 小浜にて行います。
六日市19:30~ です。
本日の説教要旨は、以下の通りです。
【ヨハネによる福音書15章26-16章4節】
「つまづき」という言葉がありました。聖書では「スカンダロス」と言いまして、「スキャンダル」の語源です。聖書から「つまづき」の意味を考えれば、信仰的な意味合いに感じます。だが「つまづき」とは普段の生活全般にもあります。聖書で主は「つまづかせないため」にこれらを語るのですが、弟子たちはこの後「つまづいて」しまうのです。
弟子たちの「つまづき」の理由は、主を取り巻く環境の変化のためでした。弟子たちも私たちも、周囲の環境というものに流される弱い存在です。日曜日ごとの、主からの恵みの言葉にうなずく一方、信仰的なつまづきや、生活の面でのつまづきの多さに思わず打ちひしがれます。「つまづく」のは、弟子たちにとっても心苦しい事でした。
主はその弟子たちのつまづきを見越して、「弁護者」を送ると約するのです。弁護者とは、聖霊のことを表します。この「聖霊」とは、人を通して働きをなすものです。第二朗読で、聖霊を受けた弟子たちは、神の言葉を他国語で語ります。聖霊は見えませんが、人を、特に私たちの近しい人を通し現れる。しかも「証しをする」「証し」とは命を賭すの意味です。つまづき、倒れ、不安な時に、私たちに命(活力)を与える。
聖霊の助けというと惑いますが、「必ずや助けがある」というと惑いません。弟子たちは確かに「つまづいた」が、つまづき続けではありませんでした。一度も、いや何度も躓いても、その度に助けがあったのですし、弟子たちがつまづかせた人々も、その都度助けがあるのです。私たちも「つまづく」経験がありますが、それは永遠のつまづきではない。折に叶う助けの中で今日を迎えたはずです。ですから、たとえつまづく中でも、助ける主を今日覚えたいものです。あなたを助けるものは、必ずある。