徳山チャペルの礼拝献花は、ゆりと赤い可愛い花でした。
徳山では、礼拝後、玄関前の花壇の植え替えが行われました。
夏の間、教会を彩る花と成って欲しいものです。
礼拝後には愛さんをもって一週間の始まりといたしました。
柳井、防府ともに、お茶による交わりがありました。
来週も礼拝は、それぞれのチャペルで行われます。
いずれの礼拝にも、どなたでもご自由にお集まりいただけます。
6/7(日) 徳山10:45~
柳井10:30~
防府15:30~
6/4(木)には、
益田14:00~
六日市19:30~ です。
本日の説教要旨は、以下の通りです。
【ヨハネによる福音書3章1-12節】
ヨハネ福音書は、主の弟子ヨハネの晩年の執筆と考えられていました。もはや自身では筆を取れなくなっていた時期です。そこで弟子に口述筆記させたのです。そして福音書が完成しました。確かに「出来なくなる」ことはあった。しかし出来ない中でも、弟子を用い、弟子も用いられ、神の栄光の福音書が完成したのです。本日の聖書にも「年を取った」者が登場します。主は、その彼にも恵みと勇気を与えるのです。
主は、「神の国に入るためには人の新生が必要」と言われます。ニコデモという人が登場しますが、彼はこれまで「努力不断の人」でした。だが努力が叶わないことがあります。「年齢を重ねる」ことでした。「年を取った者が神の国に入れようか」とは彼の言葉です。出来ないことが増える自身を時に悔しく、歯がゆく見つめていたのです。
母の胎に帰っての新生を、ニコデモは主に問います。あり得ない事を問うのです。主への皮肉かもしれません。ただ、彼なりの真摯な結論とも取れます。自力のみで現在の地位を築いた男の誇り。努力したけれど叶わない、ということを自身にも主にも納得させたかった。主は自力以外の方法を語る。「自力本願」でなく「他力本願」です。ニコデモは「生まれる」方法を考えた。主は「生まれさせて頂く」方法を語るのです。
新たに生まれるとは自力では出来ません。ただ神の働きによります。「風は思いのままに吹く」とありました。主は私たちの人生にどう関わるかは分かりませんが、でもその風は私たちを支える風です。だから日々、生まれさせて頂くチャンスがあるということなのです。主がここで、年齢を重ねたニコデモに語る、ということにも眼を向けたい。年齢を重ねる中で、立場の中で神の栄光を現わす手段は、必ず祝福されます。