会員子弟の誕生日を記念して捧げられた花です。
同じく9/16にお捧げ下さいましたお花です。
礼拝後には「みそしるとおにぎり」を頂きました。
また礼拝後、夕方からは転居為さる会員の送別会が行われました。。
今週、来週の予定は以下の通りです。
9/18 火曜日 午前 水原牧師 柳井
15時 徳山聖書研究会
9/21 金曜日 牧師 呉の被災地で奉仕
9/22 土曜日 13時 益田市小浜礼拝 休会といたします。
14時 益田教会礼拝 通常通り行われます。
19時 六日市礼拝 通常通り行われます。
9/23 日曜日 10時45分 徳山教会礼拝
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
【マルコ福音書7章31-37節】
今日の聖書は、冒頭部分に大事な要素があります。キーワードは「回り道」です。時に私たちは人生の過程で「回り道」を強いられることがあります。思い返せば「回り道」にも意味を見出すことができますが、歩いている当時は意味を見出せない徒労感に襲われます。実は聖書冒頭で主も「回り道」を為さったということが明らかになるのです。
主の出発地点は「ティルス」で、目的地は「ガリラヤ湖周辺の町」でした。そのまま行けば2-3日で着く距離です。しかし主は「ティルス」からシドン、デカポリスを通って行かれます。理解に苦しむルート選択なのです。主が今回通られたこれらの町や地域は、ユダヤが「異邦」と見做し、蔑視していた場所でした。これらの地域もユダヤを嫌っていました。主はそのような地域を「通り抜けて」大回りをされたのです。これは何を意味するのでしょう。
まず「通り抜けた」という表現は、決して冷たい表現などではありません。旧約聖書でも神さまが、そして新約聖書の「湖上の嵐」でも主が取られた行動なのです。「神さまは、決してあなたから目を離すことはない」という意味を持つ表現なのです。当時ユダヤの人々が蔑視していた場所を、主は見捨てることなく、その地方に住む人々にも神さまの愛のお姿を示されたのです。ガリラヤ湖周辺でも、主は「耳と口に障りがある人」をお癒しになられます。この人も「神さまが、自分にきちんと向かい合って下さる」ことを実感したことでしょう。主はこの人に口止めをして、その場所を後になさいます。
「口止め」をしても、人々は主の「医師」としての評価を広めます。主は「神さまの隔てない愛の姿」にこそ強調点があったのですが、主と人々との溝は広がるのです。人々には理解されなくても、主は出会う人に神さまの愛を示して行かれました。「理解されない」回り道の歩みも、具体的な回り道も、主は厭うことはなさいません。私たちが、現実的な「回り道」を強いられるときも、実はそこにこそ主との出会いのチャンスがあるのかもしれません。主と出会うことが出来る、それが「すばらしい」ことなのです。