9/9 徳山礼拝の献花です。
礼拝にささげられ、その後この場所まで移動してきました。
本日、徳山C礼拝では、Oさんご家族、Sさん、Sさん、Aさんから欠席のご連絡を頂きました。
礼拝後には「にゅうめん」を頂きました。雨が降り、肌寒い日に
ふさわしいものでした。
今週、来週の予定は以下の通りです。
9/11 火曜日 午前 水原牧師 柳井
15時 徳山聖書研究会
9/14 金曜日 牧師 呉の被災地で奉仕
9/15 土曜日 13時 益田市小浜礼拝 休会といたします。
14時 益田教会礼拝 通常通り行われます。
19時 六日市礼拝 通常通り行われます。
9/16 日曜日 10時45分 徳山教会礼拝
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
【マルコ7章24-30節】
何か冷たい、何か素っ気ない、そんな印象が感じられる主のお姿が今日の聖書に記載されていました。この女性が主からも当時のユダヤ社会から見ても「異邦人」ということは冒頭に記載されています。当時の社会では、「異邦人」とは蔑視の対象でした。ユダヤの選民意識は高く、その高さが他の民族を下位に見させていたのです。「まさか主が」下位に見るはずがないと思いますが、しかし主のお言葉を見ると、いかがでしょうか。
病の娘を持つ母親の願いに主は「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言われます。主の「小犬」という言葉に幾分かの和らぎを思いますが、拒絶は拒絶です。恐らく女性は主の「小犬」というお言葉にすがり、食い下がりますが、主はさも面倒くさそうに「それほど言うならよろしい」と、何か奥歯にものが挟まったように言われるのです。結果を見れば娘は癒えるのですが、主の冷たさは腑に落ちません。
しかし私たちは、なぜこの福音書がこの話を記載するかを考えたいのです。異邦人への「冷たく、素っ気ない」応対は、裏を返せば「ユダヤ人を何とかしたい」という主のお気持ちからのものです。しかしユダヤの人々の一部は、先週も見ましたように「かたくな」なのです(7:1-15)。「かたくな」だからと言って、主は直ぐには諦めません。そんなお気持ちの中「お一人になりたい」と思ったティルスの町で、熱意ある女性に出会う。本来ならば対処したいユダヤの民を差し置いてまで、関わりを深める主の姿を記載することで、ユダヤの民に神さまを思う心、利益優先から脱却する心を知らせたかったのです。
「願いと祈りが聞かれない」という気持ちを克服し、この女性は主に願い続けた。そのような強さは私たちにはないのかもしれません。「強く祈り、願い続けよう」そういう心を持ち得ない人を思い、主は今後も活動を続け、十字架にお架かりになったのです。「食卓からのパンくず」と言う名の恵みは、常に私たちのもとにある。強く、固く、機知ある心構えを求め、そうなり得ない私たちのもとに主がおられることを覚えたい。