本日の礼拝でも祈られましたし、祈りました。
本日の献花です。
朝から雨風が激しかったのですが、それでも教会に大勢の方が来られました。
礼拝では、新しくロウソクが捧げられました。
ロウソク着火前に聖別の祈りが祈られました。
本日の礼拝に先立ち、Kさん、Aさん、Sさんから欠席の連絡を頂いていました。
台風のため、来たくとも来られなかった方々がいることを祈りに覚えました。
今週、来週の予定は以下の通りです。
10/2 火曜日 午前 水原牧師 柳井
15時 徳山聖書研究会
10/3 水曜日 牧師 呉の被災地で奉仕
10/4-5 木曜日から金曜日 「一粒の麦」旅行同行
10/6 土曜日 13時 益田市小浜礼拝 休会といたします。
14時 益田教会礼拝 通常通り行われます。
19時 六日市礼拝 通常通り行われます。
10/7 日曜日 10時45分 徳山教会礼拝
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
【マルコ福音書9:30-37】
なぜ主は「人に気付かれるのを好まれなかったのか」と思います。大勢の人々に見いだされれば、主への要求も増します。主としては、ご自分のお弟子さんたちにより多くを教えたかったことがその理由と察します。地上の生涯の、残された時間を、不具合が見出されるお弟子さんたちのために用いたかった。だから「人に気付かれたくなかった」のです。その主のお気持ちは、しかし弟子たちには伝わりません。弟子たちは主を「恐れ」ていました。弟子たちの方から、主に歩み寄らず、自分勝手に振舞うのです。
そのことは33節からの「誰が一番偉いか」の議論に結び付きます。なぜこんな議論が生まれたのか。伏線は「ペトロへの叱責」や「3人の弟子だけが登山に同行」などの過去の記載でしょう。ペトロがサタン呼ばわりされることで、後の弟子たちは出世をもくろんだのかもしれません。3人だけが登山のお供を命じられれば、後の9人は嫉妬するでしょう。人間らしさの塊です。だからこそ主は弟子たちのために時間をお取りになったのです。
しかし当の弟子たちが打てども響かず、自分たちの立場保全をもくろんで議論するのです。だからこそ主は「一人の子どもを抱き上げる」のです。当時子どもは「無価値、奔放」の象徴でした。人間の尺度では、「どれだけのことが出来るか」という価値判断が社会で優先します。仕方のないことでしょうが、現実です。その中で私たちは時に苦悩するのです。「自分は無価値では?」と。しかし主は子どもを抱き上げた。この世の中に、価値なき人など誰もいない。「あなたがいる」それを主と私たちは喜びます。
この子どもは、なぜ自分が抱っこされているか分からないでしょう。ちなみに主のことも「たまに来る良く分からないおじさん」位の印象でしょう。それでいいのです。私たちにとって教会は「たまに来る」場所かもしれません。主のことも「良く分からない」かもしれない。でも、大丈夫。聖書や主のことが良く分からない、たまに来る教会であっても、主は喜んであなたを迎え入れて下さいます。それがあなたの教会です。