2018年9月2日日曜日

9/2 礼拝と献花






 9/2の徳山礼拝献花です。
 野の草のように、たくましく生きて欲しいというお気持ちの中で
 捧げられたものです。

 本日、徳山C礼拝では、Hさん、Oさんご家族、Kさから欠席のご連絡を頂きました。

 礼拝後には「夏の疲れをいやす」野菜スープを頂きました。

 今週、来週の予定は以下の通りです。

9/4 火曜日  午前 水原牧師 柳井
        15時 徳山聖書研究会



9/6 木曜日 牧師 呉の被災地で奉仕

9/7  土曜日 13時 益田市小浜礼拝 家庭礼拝といたします。 
        14時 益田教会礼拝 家庭礼拝といたします。 
        19時 六日市礼拝 家庭礼拝といたします。 
※次週の9/15の益田、六日市礼拝は、通常通り行われます。

9/9  日曜日   10時45分 徳山教会礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。



【マルコ71-15節】
「食前に手を洗う」のは大切なことです。しかし不思議なことに、旧約聖書本文には「手洗い」規定はありません。旧約聖書の規定を補足する形で成立した「文書」の中にその規定があるのです。「神さまによる被造物として、食べる行為の品格を高めるために」手洗いをしなければならないというのです。「動物は手を洗わないけれど、人間は手を洗う」神さまの被造物としての矜持を示すための意図で、手洗いが規定されたのです。

ところが「手を洗わない」人間を「汚れ」とし、共同体内部で白眼視する、あるいは共同体から排除するというのが当時の宗教者の為したことでした。元来は「衛生上」の事柄で、共同体を守るための規定だったのに、主の時代は共同体から仲間外れを生み出すための規定になってしまったのです。「罪人」が生み出されていったのです。主は、そのような宗教者の姿勢を「偽善者」という厳しいお言葉をもって非難なさるのです。

主は「神さまの掟を捨てた」と、当時の宗教者を非難なさいます。当時の宗教者が捨ててしまった神さまの掟とは、たとえば「神は人を良しとされた」というものでしょう。宗教者が保持している「人間の掟」とは、「手洗いしない者を罪人と定める」ものでしょう。そして宗教者によって、過去や今を責められ、自責している人々と共にあったのが主だったのです。この主の姿は、「手洗い云々」の事柄を越えて、今の私たちにも十分に通用する事柄かと感じます。私たちは「他責」や「自責」を抱えつつ生きるからです。

聖書の中に「因果応報」の考え方はあります。今も多少意味合いは違ってきますが「自己責任」という表現に名を変えているかもしれません。主は当時「因果応報」の考え方に苦しめられる一人ひとりを覚え、支えて下さいました。手を洗わなかったのは「たまたま」かもしれませんが、宗教者たちは弟子たちを責めるのです。「たまたま」の出来事に困難を覚えさせられる私たちのことを、主が捨てられるはずがありません。たとえ自分や他人があなたを責めても、主はあなたを責めない。前を向いて共に歩まれます。