8/31 吉賀町 六日市 町内の「森英恵フラワーガーデン」に行きました。
整備されている空間でした。
8/28は、西中国地区講壇交換で下関教会にお邪魔をいたしました。
9月に入りました。大型の台風が近づいている影響か、
本日は降ったりやんだりの様相です。
今週、来週の予定は以下の通りとなります。
8/31 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝となります。
9/3 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
9/7 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝
9/10 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。
■ ルカ14: 1,7~14 (新136)
1安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。
7イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。
8「婚宴に招待されたら、上席に着いては
ならない。あなたよりも身分の高い人が
招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。
10招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が
来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも
高ぶる者は低くされ、へりくだる者は
高められる。」
12また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、
友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、
目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、
あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」
■ 説教 「神は全てを良しとされる」
教会の役割は、「ほっとする」感じを提供するものです。「神さまからの愛」が告げられ、互いの気づかいで励まされる、その二つから「ほっと」できるのでしょう。礼拝を通して与えられるものです。礼拝の日は、聖書では「安息日」、福音書は、先週に続き「安息日」の出来事を語ります。書かれていることは、この安息日は主ご自身にとって「ほっと」できる状況から、遠いということでした。食事の時に「イエスの様子を伺う」人々の目線がありました。
主の一挙手一投足、言動は「ファリサイ派のある議員(1)」に見られていました。従ってこの食卓には、喜びの分かち合いはなく、律法違反への監視という生臭いものがありました。「議員」の「律法を熟知する」者としての体面は、自身の行動を通して周囲に表明されていました。それは、福音書の別箇所では「なり形(マタイ23章)」であり、日課では「宴席の席次」でした。「見せる」姿は市井にも伝播し、豪華絢爛な宴席という形に表れました。
宴席には「へりくだること(7-11)」、招待する際の「見返りを期待しないこと(12-14)」が記されます。主人から招かれた人が上席を選ぶのは、席次が定められていない時代には一般的だったようです。これは単に作法の問題ではなく、尊ぶべき神さまを第一とし、自身は身を低くするという心構えなのです。招く際にも、友人知人ではなく、普段、特別の関わりのない人々を招き、返礼や答礼を求めず、自身の敷居を低くする勧めが為されます。
これらは、主が当時も今も私たちのために行って下さったことです。損得抜きで生きられない人間には、難しい。神の導きの中で、当時の価値観の中、いわゆる「末席」にお生まれになった主は、人々も私たちをも神の国の宴席に招き、「居場所を」この教会の席を与えて下さいました。主は「本来の安息日」を回復された方でした。ご自身の安息ではなく、人々や私たちのため十字架と復活を越え、教会の頭となられました。宴席を満たしたい。