2022年9月7日水曜日

9/3.4 防府と柳井、徳山のアサガオ

 台風一過の朝となった9/7(水)です。

 アサガオはまだ、元気に咲いています。写真は台風通過前。

 9/3(土)の柳井礼拝でした。

 眼病の手術を受ける教会員のため、祈りがささげられました。

 9/4(日)の防府礼拝所でした。

 台風接近一日前の、生暖かい風が印象に残っています。

 

今週、来週の予定は以下の通りとなります。

9/7 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝となります。

9/10  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

9/11 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

9/14 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝

9/17 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

9/18  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

 

◆ルカ福音書14:2533 (137)

25大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。

27自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 

28あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。

31また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。  

33だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

 説教               「捨てられないもの」 

聖書は、「家族」についての主イエスの赤裸々な実像を描きます。そこには「理想的な」ものはなく、福音書記者たちの意図的とも思える選択が記されます。「十戒」が、第5条、10条で「家族愛」の理想を告げるのならば、記者たちは、主イエスが直面した実情を記すのです。主はマルコ3章「気が変」事件、ルカ4章「ナザレの丘」事件に直面します。主は、家族と順調に関るのではなく、困難な状況に立つのです。私たちの、時折の実情でしょう。

 

極論ですが、日課以前で主は、家族に「否」を突き付けられる現状でした。最も、主イエスの家族にすれば、主は家業を継がず、「神の子」と自称し、同世代の青年達と放浪生活状態にあったのです。主の家族の思いも察し得ます。大事なのは主も「一方の当事者」として、家族から「憎む」=「少なく愛される」状態でした。煽情的な「家族を憎む」という表現は、「家族を少なく愛する/その行く末を、神のみ手に委ね」る、と言い換えられるのです。

 

主も「多く愛されたい」と願ったことでしょう。しかし神の子としての託された責務からは、「少なく愛される」現状を「十字架として担」って行かれたのです。後半のたとえ話に共通するのは、「自力ではどうにもできない」ことです。資金も戦力も足りない状況は、現実なら悲劇以外の何物でもありませんが、「たとえ話」。それが意味することは、「腰を据えて考え」身近なことを神のみ手に委ね、結果を神のみ手のこととして「担う」ことなのです。

 

「家族を憎む」「持ち物を捨てる(33)」と、刺激的なことが記されます。当然、それらの通りはできませんが、真相は上記の通り「委ねる」ことなのです。「十戒」や律法の教えに、或いは理想的な教え通りに人は生きられないものです。「愛するか」「愛せないか」という択一に、「神が愛して下さる」という第三の回答を主は示されました。その主ご自身、家族から「少なく愛された」経験をお持ちでした。現実に生きる中で、主のみ教えを携えたい。