9/11(日)徳山チャペルでは、一年前の9月に召天された方の記念会が行われました。
ご家族からのお花、教会員が整えたお花に囲まれた記念会でした。
礼拝開始の前に、教会員が入院したことの知らせを受けました。
その方の快癒もまた祈られました。
前日、9/10(土)の柳井の礼拝です。
9月中旬ながら、残暑は厳しい一日でした。
今週、来週の予定は以下の通りとなります。
9/14 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝
9/17 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
9/21 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝
9/24 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。
◆ルカ15: 1~10 (新138)
1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
3そこで、イエスは次のたとえを話された。
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
8「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、灯火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
■ 説教 「無くしたものは、何ですか」
「ファリサイ派の人々や律法学者(1)」の役割は、「ファリサイ(分離)」の通り、「善なるものとそれ以外」の仕分けを、「律法」とその「解説書」に則り行うことでした。人々は、「自身の行い」を律法や第三者の目を通し、整えたのです。一方で学者たち、社会のため必要な働きを担う一部の人を「罪びと」と見做していました。「律法の解説書」の中や運用によって、「外れ者」が生み出される世で、主イエスは「神さまのお姿」をたとえ話で語られます。
「失われた羊」「無くした銀貨」の話は、「放蕩息子」と比べ、「主人公」は動物、物です。羊も銀貨も、興味や重さに従い、主人の手元を離れたのです。当時、「神の元を離れた人々」とは、宗教者たちは関わろうとしませんでした。しかし主は関りを持つのです。たとえ話の内容は、一匹を、一枚を探し求める主人の話。失われて良いものは無い、という主の思いが反映された聖書の個所と言えます。なぜ主は、この類の話を語ったのでしょうか。
「人気取り」か。人気を集める意図が不透明です。「神による人間の再興」と言えます。先が見えない時代の中で、社会的階層の低い人々「罪びとや徴税人」は閉塞感を漂わせていました。頼みの綱としての宗教も、その閉塞感を打破することはなかったのです。その状況をご存じだった主は、個々の人の気持ちを少しでも前に向けるため、活動をなさったのです。その働きの一つが「探し求める神の姿」でした。「神の眼にあなたは尊い」のです。
世の中は、「一人」を挫けさせる言動に溢れています。その中で、決して効率的/効果的ではありませんでしたが、主は出会う一人ひとりに「神さまの愛」を伝えました。言うまでもなく、「挫けること」が悪いのではありません。「岩山の陰に迷い込んだ小羊」も、「家具の隙間に落ちた銀貨」も、なぜそうなったか、分からないのです。しかし主は、神の姿を「最後まで探し求める方」と告げられました。ゆっくりと、じっくりと、主は共にいて下さいます。