2018年11月21日水曜日

11/18 礼拝と献花





 11/18 ついに暖房を入れました。さすがに寒い朝でした。

 今週、来週の教会行事予定は以下の通りです。

 今週、来週と礼拝は以下の日程で行われます。

 11/20 火曜日   午前 水原牧師 柳井 



          15時 徳山聖書研究会 

 11/21 水曜日   地区女性会連絡会 厚狭

 11/24   土曜日 13時 益田市小浜礼拝 休会といたします。 
            14時 益田教会礼拝 通常通り行われます。
            19時 六日市礼拝 通常通り行われます。

   11/25 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝
     礼拝後、クリスマス飾りつけ


いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


【マルコ  12章41-44節】
 2レプトンとは、今の貨幣価値に直すと50円です。貨幣単位に直すと一円玉2枚です。私たちは、50円玉や1円二枚ならば捧げられるかもしれません。しかし金銭とはあくまでも主観的なものです。この女性にとっては、2レプトンが(手持ちの)全財産でした。私たちは、財布を丸ごと献金箱に入れることが出来るか。とてもそれは出来ない話です。しかし主は、私たちを落胆させるためにこの話をなさったのか。見て行きましょう。

 まず、主はこの女性の何を誉めたのか。読んで分かるように「全“財産”を捧げた」ことですね。これが厄介なのです。「この女性が、全財産を捧げた。だから私たちも、財産を…」というように、み言葉の解き明かしの要点が「お金」に傾いてしまうのです。しかし主はがここで“財産”と言われたお言葉は、果たして“金銭”なのか。確かに主の言われた言葉には“金銭”という意味も含まれます。翻訳者は、場面が献金箱という背景から、主のお言葉も熟慮の末に「財産」としたのでしょう。しかし非才から言えば違います。

 主の言葉として翻訳されている「財産」とは、多様に解釈できる言葉なのです。「生き方」「考え方」「在り方」などです。主が評価なさったのは、この女性が「お金」を捧げたからではない。置かれている状況の中で、自分に出来ることを考えて、その結果として捧げたということを評価なさったのです。主の眼差しには、当時の宗教者の一部にあったような「金づく」の考えはありません。むしろ、それぞれの状況を見て下さるのが主です。

 それでは「全部」ささげたことはどうなるか。その答えもこの女性が示します。結論は「出来ない」「無理」という思いも捧げものになるということです。この女性が、2レプトンを捧げるにあたって、無心で捧げたということはないでしょう。今日や明日、今後を憂う気持ちの中で捧げた。当たり前のことですが、主は捧げものだけを見られません。捧げたわたしの心の中をも見て下さるのです。だから、私たちは「お金」だけを捧げません。むしろ、捧げた自分自身を、この一週間も用いて下さいとの祈りを捧げましょう。
 

2018年11月11日日曜日

11/11 礼拝と献花

11/11 徳山礼拝の献花です。
菊が中心になっています。会員の方が花瓶に活ける時に、
そばで米を研いでいましたが、菊の良い香りがしました。

先週の礼拝後、A家の家族であるペット「そらちゃん」の納骨式が行われました。

また本日、会員子弟の義父の召天報があり、礼拝の中で祈りが行われました。

礼拝前にはKさんが祈って行かれ、欠席の連絡はH兄、T姉からありました。

今週、来週と礼拝は以下の日程で行われます。

 11/13 火曜日   午前 水原牧師 柳井 

          15時 徳山聖書研究会

 11/16 金曜日  牧師 呉 安浦で奉仕

 11/17   土曜日 13時 益田市小浜礼拝 休会といたします。 
            14時 益田教会礼拝 通常通り行われます。
            19時 六日市礼拝 通常通り行われます。

   11/18 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


【マルコ 12章28-34節】
 「聖書」という呼び方に抵抗を感じることがあります。確かに「神さま」「イエスさま」は「聖」の方ですし、言われることも「聖」なることに他なりません。が、そのお言葉を受け止める私たちは何者か。大なり小なり俗なる思いを持っている者に過ぎません。その「聖」に近い人の話に直面する時、面食らうことがあります。「とても自分にこういうことは無理」と。しかしこの話を含む聖書は、神さまと私たちとを遠ざけるためにあるのか。

否。聖書はどの話も、神さまに遠い私たちを少しでも近づけるために書かれている。それが「福音」=「良き訪れ」です。今日のような「神を愛し、隣人を愛する」というみ言葉も「出来ない私」に帰結、自己完結するのではなく、「出来ない私を助けて下さる神さま」に思いを向ける。そのような信仰を目指したいものです。一方で今日の聖書に登場する「律法学者」は、何と「神を愛し、隣人を愛する」ことを「出来ている」と思っていました。

 今日の聖書では「掟」の価値が問われています。申命記を見ますと、戒め→掟→法という順序がありますが、「掟」とは、十戒を含む旧約聖書の初めの5書と理解出来るでしょう。例えば「憲法」で大事なのは何条と聞かれても、答えは個々人の感性と信条に委ねられますし、そもそも答えの出る問いではありません。いわば律法学者は「答えの出ない問い」「答えが無限にある問い」を発して、主を困らせようとしていることは明らかです。対する主は、実に穏当に「十戒」の要約を答えます。これは、律法学者への答えです。

 「神を愛し、隣人を愛する」このことを、主は私たちに求めることはありません。「愛しているか」という問いを受ければ、私たちは自信を無くします。でも、私たちは皆、それぞれの場所で実はこれらを実行している者なのです。別箇所ですが、マタイ福音書の記載に有る通りです。「誰かに親切にしたでしょう」。「親切にできなかった」ことにも気持ちが陥るかもしれません。しかし「私たちの賜物が、私たちの存在が、生きていることが」喜びの源と神さまはお考えです。私の隣人は皆さんと世界です。皆さんの隣人も然り。
 

2018年11月4日日曜日

11/4 礼拝と献花

11/4 徳山礼拝献花です。

 本日の礼拝では、事前にKさん、Sさんから欠席の連絡がありました。
 また、「12年ぶりに」ということで、Uさんが礼拝に集われました。

 礼拝は全聖徒礼拝(召天者記念礼拝)。教会と皆さまに結ばれているご家族が紹介されました。

 礼拝後には味ご飯とお澄ましを頂きました。

 昨日、益田礼拝と六日市礼拝の間には、山と谷を越えて初めて「深谷峡温泉」というところに出かけてきました。急カーブが連続する初めての山道走行、加えて夜間。冷や汗でした。

 今週、来週と礼拝は以下の日程で行われます。

 11/6 火曜日   午前 水原牧師 柳井 
          15時 徳山聖書研究会

 11/9 金曜日  牧師 呉 安浦で奉仕

 11/10   土曜日 13時 益田市小浜礼拝 休会といたします。 
            14時 益田教会礼拝 通常通り行われます。
            19時 六日市礼拝 通常通り行われます。

   11/11 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


【マルコ11:12-14】
 写真は年を取りません。それを見る私たちは、年ごとに年齢を重ねます。召された方々は、天国で永遠の安らぎを味わっておられます。しかし地上を生きる者は、様々な出来事に直面します。召天された方も、決して平安のうちに召された方ばかりではないでしょう。心残りなこと、不安なことを深奥に秘められた方もおられたのではないかと思います。理不尽、不条理。さまざまなことに直面する方々に、私たちに、主は語ります。

 今日、主は「イチジクの木を呪う」話をなさいます。一読して思うことは“理不尽”です。主がこのような理不尽な話をなさる時には、必ず裏があるのです。その裏とはなにか。“理不尽”を思いつつ生きる方々への共感です。つまり、ここで真に理不尽なのは誰か、何か。主はこの話を通して何を語りたいのか。それは、主ご自身ではなく、当時の一部の宗教者たちの理不尽さなのです。主は、ご自身の弟子たちへの発言を通して、当時の宗教者たちこそが「実を実らせないイチジクなのだ」ということを言われるのです。

 平たく言えばこういうことです。“献金額に応じて牧師の言葉かけが違う”“献金、献身が推奨され、叶わなかったらあしざまに言われる”。宗教の拝金傾向は、古今東西を問わない状況ですが、実はそれは伝統宗教の傾向でもあるのです。ルターの時代もそうでした。献金箱への音が魂の救済を告げるなどが説かれたのです。主は、当時のユダヤ教こそ“外見は立派だが何をも生み出さない”とし、それをイチジクの木に当てはめられたのです。主はこの話を通して語ることは明白です。その明白さは、ベタニア村にあります。

 ベタニア村はエルサレム近郊にあり、エルサレムをさまざまな理由で追放された方々が住んでいた村です。主はその村に足しげく通われます。理不尽や不条理を抱えつつ生きる方々に、それはつまり私たちと共に歩むための訪問に他なりません。理不尽や不条理を抱えておられますか? それは当面、どうにもならないものかもしれません。しかし覚えて頂きたい。あなただけがそれらを抱えていないことを。主があなたと共に歩まれることを。