2019年1月20日日曜日

1/19.20 献花と海と礼拝

 1/20 礼拝後に、新たな式文立てが組み立てられました。
組み立て後に、新たな式文立てへの祝福の祈り、また
今まで用いられたものへの感謝の祈りが捧げられました。
  会員の方が、ご自宅マンションのバラの花をお捧げ下さいました。
  1/20 礼拝堂です。
1/19 思い立って久しぶりの益田小浜の海岸です。
 
今週の教会の予定、牧師の動静は以下の通りとなります。

1/22 火曜日  11時   牧師 柳井行き
        15時 徳山聖書研究

1/26 土曜日 14時 益田礼拝
        19時 六日市礼拝 

1/27 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝


いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


【ルカ福音書4章16-30節】
 「ボタンの掛け違い」は起こってしまうものです。主も例外ではありません。聖書前半では、主がナザレ村の会堂でみ言葉の朗読と説教をなさっていました。しかし中盤で急展開を見せ、後半では主がナザレの崖から突き落とされそうになるのです。何が起きたのか。表面上もこれまでも、友好的と思えた主とナザレの人々との関係を悪化させたのは何か。ボタンの掛け違いへの主の応答は何か。み言葉は多くのヒントを語ります。

今日の聖書は、22節の言葉が鍵となります。22節の内容は、翻訳によってその内容が変化します。確かに日本語の聖書通りの意味もありますが、「皆はイエスをほめ(イエスの過去を口にし)、その言葉に驚いていった(その言葉を疑った)」というようにも訳せるのです。要は、ナザレの人々は幼少期や青年期の主の姿にとらわれ、主の言葉をすんなり受け止めなかった。それだけでなく、み言葉とその解釈とは別のことを口にした。それが主のみ言葉との「ボタンの掛け違い」となってしまった、ということなのです。

 しかし、このナザレの人々の姿は人間らしい姿です。主の姿を小さい頃から見知ったものとしては、主の言葉に戸惑いを覚えざるを得ないのです。平たく言えば、成長したご子息たちや生徒が立派なことを言えば、感心と同時に茶化したい気分にもなるでしょう。主も、ナザレ以外のところで名声を高めていました。帰郷した主に、ナザレの人々も複雑な感情を抱いていた。その感情が「ヨセフの子」という言葉に現れたのです。

 「売り言葉に買い言葉」のようですが、主も古事を引いてナザレの人々に応対します。怒った人々は主を殺そうとする。群集心理によって私刑が決められるあの十字架の先取りのようです。しかし主は「人々の間を抜けて」自分の道を行かれるのです。後の「怒ってはならない」の教えと反するようですが、主も人の子として、私たちに先立って歩まれました。勇気を出して「掛け違いが多い」世の中を生きていきたい。そしてどのような時にも「自分の道を歩む」私でありたい。主は、先導者、同伴者として私たちを導きます。
 


2019年1月13日日曜日

1/13 礼拝と片付け

1/13 本日の礼拝堂です。
本日の礼拝には、5歳の頃?に来られた方がほぼ13年ぶりに礼拝に来られました。
受験を控えておられるとのこと。良き将来の道が備えられるよう、皆で祈りました。

礼拝後、また先立つ先週の火曜日(1/8)にはクリスマスの片付けが行われました。

礼拝後にはおでんを頂きました。

昨日1/12 益田/六日市礼拝から帰って教会を開けると良い香りがしていました。
やはり大根です。

今週の教会の予定、牧師の動静は以下の通りとなります。

1/15 火曜日  11時   牧師 柳井行き
        15時 徳山聖書研究

1/19 土曜日 14時 益田礼拝
        19時 六日市礼拝 

1/20 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝
  

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


【ルカ福音書3章15-22節】
 2019年は「戦後74年」を経た年です。私たちの中で、戦後の焼け野原、バラックの様相を知る人は僅かかもしれません。このルカ福音書こそ、「ユダヤ戦争後」に、密かやに上梓された書物でした。信仰の象徴である神殿は崩壊し、安住の場所である国土を蹂躙されたユダヤの人々に希望となるべく、ルカは主の立ち位置を様々な所で工夫して記載します。今日の聖書も含め、ルカの強調点は「同じ目線に立って下さる主」の姿なのです。

 そのような主の姿と対比的に描かれるのが、今日の聖書の「洗礼者ヨハネ」です。元々ヨハネは、両親ともに神殿祭司の系統で、自身も祭司の身分が終生保障されていました。しかしヨハネは、神殿祭司の立場を捨てて修道僧となります。父母の家を出て荒野に出向き、厳しい言葉を広く届けました。宗教者には既得権益の放棄と自浄を、政治家にはモラルを求め、声高な発言を繰り返したのです。しかし、宗教者はともかく政治家の頭であるヘロデはヨハネの発言をどう受け止めたか。逮捕、投獄という形で答えました。

 神の言葉を語る者として、宗教者の堕落を指摘するヨハネの言動は勇ましいものがあります。ただ、強弁が招いた破滅をルカが記載していることも事実です。そのような中で主は洗礼を受けられるのです。主の洗礼の意味は様々なことが言われていますが、このルカ福音書の上記の特徴点から重ね合わせて言えば「同じ目線に立つための洗礼」と言えます。神の子である主が、罪びとである人間と同じ位置に立つための洗礼なのです。

 マタイ福音書で山上から教えている主が、ルカ福音書ではどこにお立ちになっているか。エマオへの途上をとぼとぼ歩む二人の弟子に、主はどのようにして近づくか。先立つクリスマスで、神さまが天使に歌わせた讃美歌の歌詞は何か。「地に平和」つまり、戦後の悲惨な時期を過ごす人々の心に平安あれと歌うのです。私たちには、私たちの戦いがあります。最前線で戦い、或いは最前線で戦う人の補佐をする働きです。ルカが語る「同じ目線で生きる主」は、今週も私たちと共にある。共に前に少しずつ進みたい。
 






2019年1月6日日曜日

1/6 礼拝と献花





 夜遅くの徳山C礼拝堂です。
 周囲や陽光がなく、照明のみの礼拝堂もなかなか趣があります。

 年初の礼拝でしたが、本日も大勢が集われました。
 ただ、ご母堂をお見舞いのTさん、体調回復のMさんから欠席の連絡がありました。
 2シーターのいわゆる「スーパーカーだ!」という子どもたちの声に迎えられたUさんもお見えになりました。

 今週、来週の予定は以下の通りです。

 1/8 火曜日  11時   牧師 柳井行き
        15時 徳山聖書研究会


 
1/12 土曜日 14時 益田礼拝
        19時 六日市礼拝 

 1/13 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝
  

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


【マタイ福音書2:1-12】
 主がお生まれになったことを記念して、贈り物が捧げられる今日の聖書です。高価そうな贈り物が主に捧げられる、景気の良い話です。ただ、果たしてこれは「景気良い話」か。その裏では種々の人間の様々な思惑が絡み合い、自分勝手、身勝手によって結果的に大惨事を引き起こす話なのです。ルカ福音書は「馬小屋」や「荒野」といった環境での降誕を、そしてマタイ福音書は過酷な人間社会への主の降誕を語ります。それが新年です。

 まず、唐突ですが宗教改革者のルターの功績の一つは、「み言葉を身近に」でした。その中での讃美歌、聖書翻訳の働きがありますが、これはルターの専売特許ではない。5世紀、聖書翻訳を為した人がいました。その人の解釈で「黄金、乳香、没薬」の意味が定義づけられました。黄金は王、乳香は神、没薬は十字架と復活の象徴というものです。学者たちがどのような意図で捧げたかは不明ですが、主の生涯を象徴する贈り物と理解され続けています。しかしその学者たちも、今日の聖書の人物たちも一癖ありました。

 そうです。学者たちは「導きの星を見失い」目的地を間違ったのです。そして猜疑心の塊であるヘロデの本質を見抜けず、血塗られた王朝を築いたヘロデに「新たな王」の誕生を告げます。煽られたヘロデは、御用宗教者たちに主の居場所を尋ねますが、宗教者たちも「み言葉を捻じ曲げる」のです。「ベツレヘムは決して小さな村」でないと。火に油を注がれたヘロデはその後、ベツレヘム周辺の嬰児虐殺令を出し、兵士は実行します。

 個々の出来事を探って行けば、説教でなく物語解説になります。大切なことは、主はそのような人間社会に降誕され、神さまも主を過酷な社会に降誕させたことなのです。ルターに先立つ5世紀の教父は、そのような主の生涯を贈り物によって解き明かしたのです。王である主は、十字架と復活を通られる神さまと。今年も私たちの生の現場は既に始まっています。正月ばかりは穏やかかもしれません。時に私たちは身勝手さの現場に於かれます。全てを引き受けつつ、引き受けて下さる主と共にこの年を生きたい。