2021年12月8日水曜日

12/4.12/5 待降節第二主日 柳井と防府

 

 待降節第二主日の防府。礼拝前ですので、アドベントクランツのろうそくは

 まだ一本分しか短くなっていません。

 同じく柳井。献花が「天に上る」祈りを模しているようです。

 今週、来週の予定は以下の通りとなります。

12/8 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝 

12/11  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

12/12  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝 

12/15 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝 

12/18  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

12/19  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

 

「この道は誰が歩む道?」 

この12月から礼拝で読む「ルカ福音書」には、歴史的な出来事が要所に登場します。意図は「人の営みに、神さまが関わる」ことです。言い換えれば、「神さまは私という一人の営みにも関わられる」のです。強い確信、或いは何となくの思いでも、「神さま」の存在は、過去に思い出されると思います。さて聖書本文。「ティベリウス帝の治世15年(1)」は、紀元後29年です。この年、洗礼者ヨハネや主イエスが活動を始めたということになります。

 

ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて自身の働きを述べます。「荒野の声」は、「複雑な地形」が平坦になることを求めています(4-6)。自身はその声というのです。聖書冒頭の人名はその「複雑な地形」と解せます。聖書冒頭の人々は、いずれもヨハネや主イエスのご生涯や、その死に関わる人々です。それぞれが近接的、間接的に権威を行使し、ヨハネや主の前に「山として」立ちはだかり、ヨハネや主を「谷底に」落とすことになるのです。

 

ヨハネが思う「声」とは、道徳的に正しい生き方でした。時の領主ヘロデのような、欲望のままに生きる生き方からは離れる。或いは、時の一部の宗教者のような、言行不一致の歩みを捨てる。そういう「清く、正しい」生き方を自身は送り、為政者に要求したのです。その結果、それが一因でヨハネは眼を閉じます。確かに「清く、正しい」生は間違いではありません。しかし「清貧」「道徳的正しさ」とは異なる「声」を主はその生で告げられました。

 

それは「持ち物を差し出す、ありのままの」歩みです。十字架直前、エルサレムに入られる際に、人々は自分の服や、道端のシュロを主に差し出しました。いずれも野生ないし、回収可能です。「道を備える」ために、特別なものや出来事は主の場合は不要です。むしろ、自身の捧げものや賜物が、ありのままそのまま用いられます。神さまは、時にかなって私たちに「み助け」を下さいました。私たちの賜物も、実は誰かに、何かに用いられるのです。

 

 

 

 

2021年12月1日水曜日

11/27.28 クリスマスの用意(柳井、防府、徳山)

 

 まずは防府から。11/28(日)15時半からの礼拝に備えて、写真を撮りました。

 アドベント第一主日です。

 寒風吹く中、徳山の玄関のリースです。

 聖家族たち。当初の設置状況は、賢者たちが部屋に入っていました。

 主は外に置き去りに…。それも一つの真理でしょう。

 徳山の礼拝堂です。

 天使の羽根は、乾燥したほおずきの実。

 乾燥させた方も、それを天使に用いた方も、アイディアが素晴らしい!

 子どもたちによるツリー。
 そして柳井。11/27(土)は虹が見えました。

 11/27(土)の礼拝堂です。

 今週、来週の予定は以下の通りとなります。

12/1 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝 

12/2 木曜日 17時 西教区常議員会 於:京都教会 

12/4  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

12/5  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝 

12/7 火曜日 10時 人事委員会(於:ZOOM)

12/8 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝 

12/11  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

12/12  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝 

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

■ ルカ福音書  21:25~36 (新152)

■ 説教               「冬が過ぎたら、何が来る?」 

今日の聖書の舞台は3月。ユダヤの3月の「今の」平均気温は10度前後ということです。昔はどれほどか。日中は春の陽気でしょうが、夜半は肌寒い時に主は弟子たちを集め、教えられます。その内容は、当時としては一つの常識だった「終末についての教え」。今日のルーテル教会では、これは解説や解釈なしでは読まれにくい箇所と言えます。しかし主の表現で、「終末の預言」以上に注目したいのは、「イチジクの葉」に関する言葉です。

 

英国人シェリー「西風に寄せる詩」に「冬来たりなば、春遠からじ」と訳される言葉があります。この日の聖書にも通ずる言葉です。聖書で主は、確かに天変地異を25-28節と、31-36節でお話になっています。当時のユダヤの「一般から下層」の人々にとって、生活は厳しさの極みでした。その中で人々は「ご一新」としての「天変地異と再臨」を待望するものでした。「春」としての終末を望む、当時、流布されていた信仰の言葉を主も語ります。

 

その「厳しさの極み」の感情を、私たちは知らないことはないと思います。今はなくても、昔やこれからを考えると、心配になりますね。でも主は言われます。「厳しさの極み」の中、終末待望する信仰と共に共に「イチジクの木を見なさい。若葉が出る時が来る。同様に、神さまはあなたのすぐ傍にある(神の国が近づいている(31)」と。聖書の舞台は3月でした。決して暖かではないその時節に、主は、自然を通しての神さまの支えを語るのです。

 

以前は待降節第一主日「ロバの子に乗る主」を聞いていました。小さなものを用いる主の姿です。主はここでは、「小さな芽、或いは枝」を見て、そこから芽吹く緑の若葉を語られるのです。ルターの言葉として確定しているのは「この世を動かす力は希望である」というものです。「ご一新」「終末」以上に主は、その過程、渦中にある私たちに「命の希望」「それが世に属する私たちを動かす」ことを語るのです。「神さまのお支え」を覚えましょう。