2016年4月2日土曜日

4/3礼拝と徳山教会夜景


明日も、徳山、防府、柳井では礼拝が行われます。

改修が終わりかけている徳山教会の夜景です。
十字架がライトアップされています。

水原牧師の義祖母が召天したため、明日の更新が時間的な問題からできませんので、
少し早めの更新となりました。

来週も礼拝は、以下の日程で行われます。
どなたさまでもご自由にいらしていただけます。

 4/10(日) 徳山10:45~
       柳井10:30~ 
        防府15:30~

 4/7(木)には、
       益田14:00~ 礼拝、 
        六日市19:30~ です。

本日の説教要旨です。




【ルカ福音書241325節】
私たちは昔を振り返り、個々の試練や悲しみの意味を見出すことができることもあります。むろん、わからないこともあるのですが。けれど、分からなくともその意味はやがて必ず示されることが今日の聖書の意味することです。今日の聖書で、「暗い顔」をして歩く弟子たちがいます。主の架刑の衝撃と、み体が無いことで暗い顔となっているのです。

復活された主は、その弟子たちに自身に関わる聖書を説明します。後々、この時のことを思い出した弟子たちは、あの時の温かみを思い出します。語り手が誰かは分からなかったのですが、主は「分からせない」のです。ただ同じ道を行くのみです。「暗い顔」「悲しみの最中」にある時、必要なのは、ただ傍にいること。それを主は明示されたのです。

エマオの宿で主は弟子たちと共に食事をします。弟子たちはこの時点ではまだ主が分かりません。目前の人が始めたことを見ます。「パンを割き賛美する」これで「最後の晩餐」を思い出します。主の復活を確信します。主の姿は見えなくなるのですが、弟子たちはそこに至って初めてこの日の出来事の繋がりを知るのです。主は同じ道を歩んでくださった、聖書を教えて下さった、叱って下さった。在りし日の主と変わらない復活の主を覚えます

「私たちの心は燃えていた」彼らの心を燃やしたのは主の御顔やみ姿ではありませんでした。主の口からの言葉と、共にいて下さる存在です。極論ですが、主の顔や主の姿形はもはや必要ではないのです。み言葉と、共にいて下さる主は、今週も私たちを支えます。私たちは、主の如くのみ言葉は語れません。しかし誰かと共に歩く、共に過ごすことはできないでしょうか。語ることは小さくても良い、ただ共にいる。困難の人々に寄り添う。そのような歩みを為し得れば幸いです。浮き沈みの生の中、そのことを心から覚えたい。