2016年3月27日日曜日

3/27 礼拝と献花




本日も、徳山、柳井、防府では礼拝が行われました。
徳山ではイースター礼拝のあと、ピアノコンサートが、
柳井ではイースター礼拝の中で洗礼式が行われました。

イースターとは、イエス・キリストの復活を覚える礼拝のことです。

来週も礼拝は、以下の日程で行われます。
どなたさまでもご自由にいらしていただけます。

 4/3(日) 徳山10:45~
       柳井10:30~ 
        防府15:30~

 3/31(木)には、
       益田14:00~ イースター礼拝、 
        六日市19:30~ イースター礼拝です。

本日の説教要旨です。



【ルカ福音書24112節】
キリスト教信仰の要は,クリスマス,イースター,ペンテコステに示されるものです。その出来事をよくよく考えてみると、神の御力は偉大ですが、しかし結ばれる当の本人は不甲斐ないものです。本日はイースターです。やはりというか、当然というか、このご婦人たちも喜びから始まらないのです。香油を用意していますが、主復活の信仰はありません。ご遺体への思いです。

墓参の婦人たちの心境は寂しさがあります。格言集のシラ書には「与えられた親切に報いる」教えがあります。聖書を解かなくとも人類共通の道徳倫理でしょう。でもここがこのご婦人たちの素晴らしいところです。考え付く最上の業を成そうとするのです。しかし墓には大石。これは文字通りの障害でした。自分たちでは如何ともし難いが、何かを成さずにはおられない心境です。その大石が排除されていますが、主のご遺体もないのです。

墓にはみ使いがいて、主の復活を告げます。そこで初めて婦人たちは主の言葉を思い出すのです。以前に、三度まで念を込めて主が言われた言葉を忘れてしまっていたのです。ご婦人たちは、主を想起し、隠れ住んでいた弟子たちに、主の復活を知らせます。ところがこの弟子たちも「戯言」と決めつけてしまうのです。当初復活の出来事は忘れられ、妄言と決めつけられていたのです。けれど、それが私たちの時代にまで続く信仰となった。

主の復活の次第は分かりません。だが主の復活を信じた人々の活躍は、その後の聖書や教会が示します。私たちもかつて先人たちの姿に押し出されて今日があるのです。自身では納得し難いが、私たちの今の姿も他者の励みとなるものです。私たちは、主の力に押されて生きる者なのです。今後も不安や行き詰まりを覚えます。私たちは不如意でも好いのです。それをも見越して導くのが主だからです。「この私が今週も主の手足であるよう」