本日の徳山Cの献花です。
謝恩会に出席した会員が、感謝のしるしとして教会にも捧げられました。
礼拝堂内が台所の荷物で狭く感じられる今日も、
徳山をはじめとして山陽三教会では礼拝が行われました。
今週、来週とも礼拝は以下の日程で行われます。
いずれの礼拝も、どなたさまもご自由にいらしていただきます。
3/27(日) イースター礼拝
徳山10:45~
柳井10:30~
防府15:30~
3/24(木)には、
益田14:00~
六日市19:30~です。
本日の説教要旨です。
【ルカ福音書23章44-56節】
主のご生涯の断片には、詩編の言葉がありました。「詩編」とはそもそも何か。それは賛美歌集であり、当時の家庭で親が子に教えるものでした。心の教育即ち「童謡」「子守歌」です。主は、童謡という意味の詩編を親から賜る家庭で育ったのです。場面は主の十字架の佳境です。天変地異が記載されます。日食かは不明ですが、闇が勝つ描写なのです
外の風景と同様、心中が闇と化したのはガリラヤから来たと記される女性たちです。ルカ福音書は明確に記載していませんが、ヨハネ福音書はここに主の母マリアがいたと記載します。そもそも主の母マリアの妊娠と出産については、この福音書が筆を多く割くのです。「詩編の子守歌」でマリアは主を育てました。年が経ち「逆縁」という形で主の死を目撃する母です。筆舌にし難い思いで、主というより、我とわが子の死を見させられる母マリアです。
主の最期の言葉は福音書によって違いますが、共通項は詩編ということです。「我が神,父よ,渇く」は詩編の言葉。主は、幼年期に教わった詩編の言葉、母の背や母の胸で聞いた詩編をもって生涯を終えるのです。母の眼差しから見れば、主イエスは、神信頼の意味の詩編と共に、子守歌と共に死ぬ。妙な言い方ですが「人間らしさ」を見せられます。一切を見届けた婦人たちは、主の葬りを見ます。女性たちは備品を購入、心は闇の中です。
雌伏という言葉があります。雌鳥が伏して雄鳥に従う様子からの言葉です。女性たちは、主の十字架や埋葬時にも様子を見るのみでした。だがこの女性たちはやがて復活の証人とされます。雌伏に対する言葉は雄飛。男性の弟子たちが雄飛したかというと情けない体たらくでした。真に雄飛したのは主です。墓石という闇に閉ざされつつ復活されました。主はこの力を私たちにも今、下さるのです。み言葉を胸に、一週間を生きたい。