2018年1月21日日曜日

1/20.21 海と献花と礼拝

  1/20の小浜の海です。
 先週は、小浜礼拝の出席者が風邪ということでした。
 本日も、のどの調子が良くないようにお見受けしましたが、
  それでもご召天になった奥さまの愛唱讃美歌を心を込めて歌われていました。
   1/21の徳山C礼拝の献花…は、どこかに行ってしまったので、
  先週の礼拝献花を写しました。ランの花です。

水仙。

 本日も、大勢の方が礼拝に集われました。
礼拝後の愛さんは牛丼とみそ汁。もはやソウルフードですね。牛丼。

礼拝の中では、雪深い遠隔地にお住まいの会員ご母堂のこと、
礼拝を休まれている方のこと、
インフルエンザB型を発症した会員子弟のことを祈りました。

今週の教会行事は以下の通りとなります。

1/23 火曜日 聖書の学び 15時より

1/27 13時 益田市小浜礼拝
    14時 益田教会礼拝
    19時 六日市礼拝
1/28 10時45分 徳山礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。



【マルコ福音書1章14-20節】
 礼拝は「祝福」で終わります。その祝福は「アロンの祝福」と言って、旧約聖書民数記に記載されています。ざっくりと言えば、神さまは、み前で腰が据わっていないユダヤの人々を祝福したということです。その中に「神さまの御顔」という表現が二度、出てきますね。「祝福」はもはや、礼拝の慣用句の一つとなっていてあまり気に留めないかもしれませんが、これが重要です。神さまは、私たちに顔を向けて下さるのです。そのことは、実は主が公にして下さったことです。それも「悔い改め」の一言に、神さまの御顔について含まれています。

 「悔い改めよ」とは、マルコ福音書での主の第一声です。実はこれは、聖書の原語と日本語とに、言葉の印象のズレを見出せるのです。私たちが「悔い改め」と聞くと、「道徳的改心」を思います。「ちゃんとする」のです。しかし聖書は「方向転換」ですし「立ち返る」のです。その前提は「神さまは、ちゃんとできない私から目を離さない」のです。主語が違うのです。日本語は「私がどれだけ正しく振る舞えるか」。聖書は「神さまが眼差しを注ぐ」のです。聖書の時代も、どれだけ自分を律せるかが問われ、そのための「律法」が幅を利かせていました。主の「悔い改め」の言葉は、そのような時代の中で、神さまの愛を伝えるものでした。

 主が向かったのは湖畔で、漁師たちがいました。ユダヤ植民地の当時、労働者たちはローマとユダヤ領主に二重取りされていましたが、漁師たちも同様でした。定量を収穫して初めてローマから賃金が支払われる。定量以下なら魚は没収。自由市場もない。なけなしのお金はユダヤ宗教者に取られる。踏んだり蹴ったり(踏まれたり蹴られたり)です。そこに主の言葉が望むのです。神さまの言葉には、人を変える力があります。「人間を取る漁師にしよう」と。

 主は、漁師たちの日常に一石を投じました。その主ご自身の若かりし日々は大工でした。ガリラヤ中を歩かれた主は、漁師を含む、人々の生き方の悩みをご存じだったのです。神さまは、そんなあなたの日々を知っている。神さまはそのあなたに御顔を向けている。だからこそ、漁師たちは主の言葉に感銘を受けて弟子になった。祝福は私たちにも向いています。

2018年1月14日日曜日

1/14 礼拝と献花

 1/12からの寒波は、山陰地方にも大雪をもたらしました。
道路事情により、1/13の益田、六日市礼拝は休止となりました。
1/14早朝、徳山Cの礼拝堂も冷え切っていました。
しかし、前日から会員の方が御掃除をして下さり、またお花を届けてくださったりと、
そのお気持ちで礼拝堂が温かくなったように思えます。


こちらがその、前日に捧げられたランの花です。

1/14、徳山Cの礼拝は行われました。
礼拝後の愛さんに残られた方も多く、マイタケの炊き込みご飯、大根とおあげの みそ汁を感謝して頂きました。

今週の教会行事は以下の通りとなります。

1/16 火曜日 聖書の学び 15時より
1/18 三役会 光市にて
1/20 13時 益田市小浜礼拝
    14時 益田教会礼拝
    19時 六日市礼拝
1/21 10時45分 徳山礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。



【マルコ福音書1章9-11節】
 雲の切れ間から、光が地面に差し込む様子は良いものです。この光の様子は聖書記事になぞらえ「ヤコブの梯子、天使の梯子」と呼ばれています。そして「天が裂ける」そのことは、イザヤ書63章9節を見ますと「神さまのご介入」と見做されていたようです。主が洗礼を受けられると、天が裂けたという10節の記述は、聖書の伝統を重んじる洗礼者ヨハネの眼に、まさに「神さまのご介入」と映ったことでしょう。それを見る他の洗礼者にも同様のことでしょう。

 神さまはこの世にどのように介入されるのか。それは主に下った「鳩のように下る霊」に明らかとなります。他の鳥でない、鳩なのです。鳩は聖書では安定、平和の象徴です。それが下ります。鳩も他の鳥類と同様、翼を広げて着地します。この世を安定と平和で覆うために、神さまは主をこの世に遣わされたのです。それは人が主によって安定と平和を抱き、前向きな心で生きるためにです。主はそのために、洗礼をヨハネから受けられたのです。

今日の聖書直前で、洗礼者ヨハネが登場し、罪の赦しとしての洗礼を授けています。なぜ主がこの洗礼を受けられたのか。主に罪はありません。むしろ主は、人々の罪を自身の罪とするために洗礼を受けられたのです。これまで罪の赦しは、金品や捧げものとの代替で得られるとされてきました。持たざる者は、赦されざるものとなってしまうのです。ヨハネも主も、その現状に反発する心で活動します。神さまの介入はこれで終わりません。主の十字架と復活をもって、全ての人に知らされることになるのです。主も神さまの介入に戸惑いつつも、「御心に叶う」と、今日の聖書に登場した言葉をもって十字架を受け止めるのです。

今日、主は「ナザレのイエス」として活動を始められました。福音書の最後に「あなた方は十字架に付けられたナザレのイエスを探しているが…」とあります。神さまは主を、人の子として成長させる一方で、人々の罪を担う神の子として十字架と復活を体験させたのです。神さまは主を誕生させ、この世とそして私たちと結びつけて下さいました。その私たちは今週も生きる者です。生活の局面で起こる不可解なことも、み助けの中で克服できるのです。
 

2018年1月7日日曜日

1/7 海と献花と礼拝

  1/6の小浜海岸の様子です。天気晴朗。
  波高し。
  1/7の献花(といっても、先週お捧げ頂いた花です)。
1/7 容器が変わりましたが、お正月の花です。

 昨日、本日ともに益田小浜、益田元町、徳山では礼拝が行われました。
 外国から帰国されるであろう会員ご家族(六日市)のお知らせがあり、
 会員ご家族が大勢集われた礼拝でした(徳山)。
 益田小浜でも新年初めの礼拝が行われました。

 今週、聖書の学びは行われます。
 今週、来週ともに以下の日程で集会、礼拝が行われます。


1/9 (火) 徳山 聖書の学び 15時~16時
1/13 (土) 13:00 益田 小浜礼拝
       14:00 益田 元町礼拝         
       19:30 六日市礼拝

1/14(日)10:45 徳山 礼拝 


いづれの礼拝、集会ともにどなたでもご自由にお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。




【マタイ福音書2章1-12節】
 新年の顕現主日にはこの聖書が選ばれます。「顕現」とは「上に輝く」の意味です。新年を迎えることが出来た私たちにとって、めでたい言葉と言えるものです。では、輝きを上に置く私たちとは如何なるものか。聖書は、私たちの姿を古人の姿に当てはめて語ります。それは言うまでもなく、神さまがお語り下さるものなのです。聖書を通して自分自身を主のみ前に見直す時、「めでたい」意味は、「神さまがめでて下さる」と変化することでしょう。

 まず「東方からの学者」、なぜ聖書は彼らを「東」から登場させたのか。聖書で「東」とは、アダムとイブの失楽園「過ちを犯した追放の地」です。彼らはその東から到来したのです。いわば「過ちの回復のため」です。それでも当代一流の学者たちがまた過ちを犯すのです。導きの星を見失い、あろうことかベツレヘムでなくエルサレムを訪問してしまうのです。また「神殿の学者たち」。聖書に精通している彼らが、なんとみ言葉を捻じ曲げてしまうのです。

 「神殿の学者たち」が引用したのは、旧約聖書のミカ書です。見比べてみてください。元々のミカ書には「ベツレヘム」を「小さい」としています。しかし学者たちは「小さくない」としています。王の領地だから、実際は寒村であっても「小さい」と言うのははばかったのでしょう。それで、占星術と神殿学者たちの過ちの結果、何が起こったか。占星術の学者がヘロデの地位保全心に火を付け、神殿学者たちがそれを煽った。その結果、ヘロデはベツレヘムの周辺二歳以下の男子虐殺を為すのです。まことに主は、そのような人の世に生まれられたのです。

 人の世とは、きれいごとだけではありません。私たちも、何時しか不条理に巻き込まれ、あるいは当事者となってしまうのです。主にとっては、赤子として誕生したすでにその時から始められていたことなのです。しかし主は、一つ一つと向き合い、私たちを照らすために、やがて十字架へとお進みになるのです。かつて星を見失った占星術師たちに、神は再び導きを与え、み言葉を捻じ曲げた学者たちに神は、主を遣わされました。その神は私たちをめでて、愛して下さいます。この一年も、聖書の前に身を低くして聞きたい。