2026年9月29日火曜日

9/23ソレーネ周南の夜市川、9/26雨の柳井、9/27防府のカランコエ、9/29徳山でもカランコエ

 


9/26(土)雨の柳井教会。どこであっても、穏やかに降って欲しいものです。

9/29(火)左下には、「カランコエ」の献花。この後、牧師室に移動しました。
9/27(日)防府教会の献花。こちらもカランコエ。

9/23(祝・水)周南と防府のほぼ中間地点、「ソレーネ周南」には、親水公園があります。

なにか堤防のようなものを作成している最中。

奥では、メダカのようなものを採取している最中。

ちなみに「やじがわ」夜市川。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


9/30 水曜日 17時 六日市チャペル  

10/3 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

10/4 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

10/7 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

10/10 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

10/11 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

9/27(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


聖霊降臨後第18主日 説教 

マタイ福音書21章23節-32節 「遅れても、主のもとへ」

水原一郎

① 主イエスが神殿で教えておられると、祭司長や長老たちが近づいてきて言います。「何の権威で、このようなことをしているのか」。これは、直前に主イエスが神殿において行われた「宮清め」への問いでした。神殿のあり方にまで手を入れる。いったい、あなたは何者か。誰から権威を与えられたのか。彼らは主イエスに答えを求めます。


② しかし、主イエスはすぐには答えられません。代わりに、「ヨハネの洗礼は、何の権威か」と問い返されます。すると彼らは、議論を始めます。「天から」と言えば、なぜヨハネを信じなかったのかと問われる。「人から」と言えば、民衆が怖い。そこで最後には、「分からない」と答えます。でも、本当に分からなかったのでしょうか。そうではありません。何が正しいかよりも、自分がどう見られるか、自分の立場がどうなるかを先に考えていたのです。だから彼らは、「分からない」と言って、答えることを避けました。


③ そこで主イエスは、一つのたとえを語られます。父が二人の息子に言います。「今日はぶどう園に行って働きなさい」。兄は「いやです」と答えながらも、出かけました。弟は「承知しました」と答えながら、出かけません。私たちはここでも、先ほどの祭司長たちの姿を思い出します。祭司長たちは、「分からない」と言って、答えません。たとえ話では、弟は「分かりました」と言って、行動しません。言葉、返事は違っていても、どちらにも、自分を守るために神の呼びかけから距離を置いてしまう人間の姿があります。


④ そして主イエスは、徴税人や娼婦たちが、先に神の国に入っていくと言われます。当時の社会では、彼らは「立派ではない人」と見られていました。しかし、主イエスは、人をそのような評価だけで見ておられません。徴税人や娼婦の中にも、ヨハネの言葉を聞いて、悔い改めた人がいた。そのことを主イエスは見ておられます。一方、祭司長や長老たちは、ヨハネの言葉を聞いても、自分たちの立場を変えませんでした。ここには、前半の話と同じ人間の姿があります。何が正しいかだけではなく、自分の立場や対面を考えてしまう。けれども、神の言葉は、そこにとどまっている人を、もう一度動かされるのです。遅れてもいい。頂いた言葉によって、向きを変えることができるのです。


⑤ 私たちもまた、いろいろなものの中で生きています。社会の決まりや、人との関係や、自分の立場があります。特に「立場」は私たちを、「自分はこういう人間だ」「今さら変わることはできない」と諦めさせることがあります。祭司長や長老たちの「分からない」も、そうだったのではないでしょうか。本当に分からなかったのではなく、分かってしまえば、自分の立場を変えなければならなかった。だから、そこで立ち止まったのです。しかし、人は変わることができます。「嫌です」と言った息子が、後になって出かけたように、私たちは途中で向きを変えることができます。そのために神は、すでに私たちに御言葉を与えてくださっています。そして私たちは今日、その御言葉を聞くために、ここにいます。礼拝とは、立派になった人が来る場所ではありません。自分の歩みをそのまま抱えたまま、主の言葉を聞く場所です。ここで聞いた御言葉によって、「もう遅い」と諦めていた心が、もう一度主の方へ向けられる。昨日までと同じ場所に立っていても、向きを変えることはできる。だから、今日ここにいることを、私たちの歩みの一つのはじまりとしたいのです。遅れてもいい。最初の答えが「いやです」でもいい。主の言葉を聞いて、もう一度、主のもとへ向かう。その道の始まりが、今日という日です。