2026年9月24日木曜日

9/16六日市コスモス、県境、9/19柳井、9/20防府、9/21徳山

 9/16(水)六日市に咲いたコスモス。今度は季節順当のコスモスです。
 9/23(水・休)の礼拝は家庭礼拝となったため、六日市が多めの写真です。

 これは県境の史跡、奥に続く道。

 県境史跡。山口県と島根県の県境。

 やぶ蚊がいなくなった頃、もう一度。

 9/19(土)柳井礼拝所。

 こちらもジンジャーの献花。香りが広がりますね。

9/20(日)防府礼拝所。

やさしいピンクの献花でした。


 9/21(月)徳山礼拝所の朝。

そとは曇りでしたが、この礼拝堂はいつも、外の採光が十分に生きる形をとっています。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


9/23 水曜日 17時 六日市チャペル 家庭礼拝 

9/26 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

9/27 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

9/30 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

10/3 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

10/4 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

9/20(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


聖霊降臨後第17主日 説教 

マタイ福音書20章1節-16節 「友よ」

水原一郎

① 山口県の仁保(にほ)、須金(すがね)、日積(ひづみ)は、ぶどうの産地です。それぞれに味わいが違います。8月から10月までが収穫のシーズンです。山口県のぶどうと、ユダヤのぶどう。収穫の時期が同じとするならば、労働は比較的涼しい朝から日中、夕方まで行われます。本日の譬えを読むと、私たちは朝から働いた労働者に共感します。朝早くから暑い中で働いた。ところが夕方から来た人も同じ一デナリオン。「それはおかしいではないか」。私はそう思います。労働環境や時間が全く異なるからです。むしろ文句を言わない方がおかしいと感じます。しかし主イエスは、この譬えを通し私たちの心を見つめます。私たちはこの話のどこに、違和感を覚えますか?


② 働いていた同労者が、違和感、つまり怒りを覚えたのはどこでしょうか? 問題は、「評価」としての賃金でした。「自分たちは長く働いた」「しかし、夕方の連中の評価と自分たちのが同じとは」。評価が同じということが許せないのです。その瞬間、この例えは労働の話ではなくなります。「異なる背景の中で、神は等しく恵まれる」それを示すこの例えは誰に語られたのでしょうか。マタイ19章3節からの話の流れにあるとすれば、「ファリサイ派」の人々がこの場所にいたと思われます。彼らは自分たちこそが、神のみ言葉を「伝統」に則って守り続け、教えていたという心がありました。「伝統を守る」それはそれで大切なことです。ただ問題は、「罪びとや徴税人」と言った人々を下に見ていたことでした。神の恵みが及ばない人々と見ていたことだったのです。


③ 更に言えば、主イエスは賃金という「評価」を通し、主人である神の姿を示します。神が最後の者を受け入れ、憐れみを示し、気前の良さを示したことです。マタイ福音書の中で、主イエスの教えは重なります。徴税人マタイが招かれる。罪人が主イエスと食卓を囲む。子どもたちが主のもとへ集められる。それを見て人々は眉をひそめる。しかし神は受け入れられる。神の気前の良さと、人のねたみ。対比がここにあります。


④ 朝から長時間働いた人々は、誰を示すのでしょうか。それは明記されていません。一方で夕方五時から来た労働者は誰でしょうか。それは、主イエスの時代に生きる全ての人々であり、また私たちです。しかし不思議なことがあります。本当は五時から来た労働者である「ファリサイ派」の人々が、気づけば朝から働いた労働者の顔をしているのです。「あの人よりは自分の方が」「自分の方が長く仕えてきた」「自分の方が苦労した」。そしてそれは私たちも同じかもしれません。私たちはいつの間にか、自分の働きを数え始めます。そしていつしか、他者の存在や働きを低きに見るのです。


⑤ だから主イエスは、この譬えを語られます。私たちを責めるためではありません。自分の働きを数え、人と比べ、自分の正しさを主張してしまう私たちに、「あなたは既に受けている」と知らせるためです。私たちは、自分の働きによって神の前に立とうとします。しかし主イエスは、そのような私たちを見捨てず、私たちのために十字架へ向かわれました。主イエスの十字架とは、どのような場所でしょうか。神を愛しきれず、隣人を愛しきれない私たちを、それでも主イエスが愛してくださった場所です。だから主は今日も私たちに言われます。「友よ。」見放す言葉でも、裁く言葉でもありません。自分の功績ではなく、主の恵みによって生かされていることを思い起こさせる言葉です。その恵みにより、私たちは人と比べることから解放され、隣人と共に歩むのです。