2020年8月18日火曜日

8/15.16 柳井、徳山、防府


 

写真の掲載ができませんでしたが、過去のものからピックアップしました。

やはり写真は大事ですね。

今週、来週の礼拝は下記の通りです。

8/19 水曜日 19時 六日市C礼拝
 
8/22 土曜日 15時 柳井C礼拝 

8/23 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
       15時半  防府C礼拝
   
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
 

マタイ福音書1521-28

 福音書の中で「船」はよほど身近だったのでしょう、話の中に「人間を現すもの」として、良く登場します。私自身もこの表現は好きです。ただ私たちは「一艘の船」ではないですね。私たちとつながり、結ばれている船もまたあります。家族関係だけでなく、ゆるく、広いつながりが当てはまります。神さまは、私個人の神さまです。しかし神さまは「私という船」を通し、私のつながりの先に思いを向けて下さいます。それを今日聞いていきたい。

 

主は当時「異邦の地」と見做された「ティルスとシドンの地方(21)に行かれます。距離としては柳井⇔防府間の80キロほどで、かなり大まかですね。この地域内のどこかに行かれたのでしょう。当時のユダヤの世界観は、時代の故もありますが、独自性の強いものがありました。平たく言えば「偏狭」です。しかし、ここにマタイ福音書の自問自答があります。マタイも「系図(11)」を強調する、生粋のユダヤ主義者でしたが、果たして主はどうなのか。主も「ユダヤ主義者」であるのか。主はこの話でその問いに答えます。

 

ここに病の子どもを持つ「異邦人(22)」の親が登場します。様々な親子関係がありますが、この女性は子どもの病を案じつつ(22)、主に癒しを願います。典型的な反応が弟子たちと主に示されます。つまり弟子たちは「排除」、主も当初は「無関心」(いずれも23節)を示します。当時のユダヤは、異邦人に対してはそのような態度だったのです。弟子たちは本心だったでしょうが、主は「建前(106)」を告げられます。つまり「自身はユダヤのために働く」と。しかし女性は食い下がる。主はこの女性の熱意、思いを見られます。

 

この女性の思いは何か。それは「神さまの恵みは一か所には留まらない(27)」というものでした。特定すれば「ユダヤ」に留まらない。今に転じて言えば「あなた」に留まらないのです。この女性は、神さまの働きの大きさに信頼し、主はそこをご覧になったのです。さあ、この話を通して示されているのは、「神さまは私を通して近しい者()に関わる」ことです。差し当たって私たち、聖書の女性のように、近しい者を覚える群れでありたい。

 
 

2020年8月12日水曜日

8/8.9 礼拝

このブログの仕様のせいでしょうか、撮った写真を載せられません。

そのうちに直したいと思います。

 

 

今週、来週の礼拝は下記の通りです。



8/8 土曜日 15時 柳井C礼拝 

8/9 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
       15時半  防府C礼拝
   
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
 

マタイ福音書1422-33

 今日の聖書は、いつの時代でも、そしてどのような人にも「あてはまる」話と言えます。一体何が、「あてはまる」要素なのか。およそ「逆風、漕ぎ悩むこと(24)」や、「波(24)」という周囲の状況に「悩まされる」経験は、人類共通の課題でしょう。そのような渦中にあって、主が近づき、船は無事に目的地に着く。始めて聖書を読んだ時は、何とご都合主義と思えました。「主に信頼をし、生きる」という教えが香ります。しかしこの話を深く読む時、ご都合主義でなく、現実の中で導かれた話となります。共々に、み言葉を聞きたい。

 

「現実」とは何か。それは思い通りに行かないことの繰り返しです。上で触れた「逆風」や「漕ぎ悩む」こと、「強いられる」こと。22節には「弟子たちを強いて船に乗せた」主のお姿が記載されています。朝晩の大風がガリラヤ湖に吹くのをご存じの主が、なぜ弟子たちを船に乗せたか。弟子たちはなぜ従ったか。時にはこのような不条理に、人は直面すること、人は不条理に逆らえないこともある、不意の困難に出会うことの象徴でしょう。

 

嵐の混乱の中で、主はあえてご自身を現されます。自失状態であった弟子たちは、主を幽霊と見做してしまいます。また主はあえてペトロに、来よと言われます。疑うペトロは溺れてしまいます。主は上記の乗船も含め、「あえて」色々なことを命じられます。弟子たちはその都度慌てる姿を示すのです。しかし根気よく導かれる主に「助けられて(30)」、目的地へと着く。弟子たちはその後、自身の姿を他者に伝え、これが福音となるのです。

 

今の時代がどこに向かうのか、私たちがどこに向かうのか、それは分からないことです。決して思い通りになることはないでしょう。「逆風」に漕ぎ悩む、「強いられて」不条理に直面させられることもあります。しかし、私たちにはそのような現実に向かい合うための言葉があります。「主よ、助けて下さい(30)」これを主は、祈りの言葉として私たちに下さいました。人生そのものも、或いはこの数カ月の事態も、嵐のような状況です。漕ぎ悩む過程の中で、私たちの船に主が共にあることを支えとして、日々を過ごしていきたい。

 

2020年8月4日火曜日

8/1.2 礼拝堂(平和礼拝)

平和礼拝の写真を撮ったのですが、「サーバーの不具合」ということで
 写真掲載ができませんでした。そのうちに載せたいと思います。

今週、来週の礼拝は下記の通りです。

8/5 水曜日 19時 六日市礼拝

8/6 木曜日 13時 本教会 臨時常議員会(ZOOM会議)

8/7 金曜日 14時 聖書を学ぶ会 於:徳山 
       この日は休みとなります。 

8/8 土曜日 西教区 常議員会(メイル持ち回り会議)
       15時 柳井C礼拝 

8/9 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
       15時半  防府C礼拝
   
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

マタイ福音書1413-21

 マタイ福音書が主(やその父ヨセフ)に多用する言葉があります。それは「退く」という言葉です。退却や引退など、敗北あるいはそれを予感する言葉に「退く」が用いられています。日本語では、何かの失敗、失策を予想させる言葉となります。ところがマタイ福音書は、主の場合には「失敗、失策」ではなく、「神さまの導きの中の転進」の意味を持たせるのです。「洗礼者ヨハネの死」を通して主に示されたのは、そのような「退き」でした。

 

 主は、「船に乗り、人里離れた」所に退かれた。「船」とありますが、ガリラヤ地方のことでした。「死の影の地 416」と、別の地方からは蔑まれていた土地でした。主がガリラヤへ「行かれたこと」を「退かれた」とマタイは表現するのです。マタイの意図では、主は「引退、退却」されたのではなく、「使命として、召命を受けてそこに転進された」ということなのです。神さまは、主とガリラヤ地方の人たちとの改めての出会いを企図された。主ご自身も、神さまによる出会いのきっかけを受け、そこへと歩みを向けられたのです。

 

「ガリラヤは“死の影の地”である」というような、およそ私たちの感性ではそういう呼び方を他地方に向ける事はありません。これを現代の言い方に直せば、「地域ぐるみの蔑視、いじめ」を受けていたということです。ガリラヤの人々の生き方も気持ちも「退く」。そこに主は歩みを重ねられたのです。「五千人の給食」の話の発端も、「十分なものがない」という弟子たちの気分の「後退」感でした。主はその弟子たちにも共感され、人間の思いの限界を超えた「給食の奇跡」を為される。「退く」者に主が近づかれるのです。

 

さまざまな意味で、「退く」ことが求められる時代です。「活動の縮小、限定」が課せられます。また今日の時代的な背景ではなく、私たちには個々に「ふさぎこむ、内に向かう」時を送ります。その私たちに今日示されるのが「ガリラヤに、神さまと自らのご意思で歩まれる」主のみ姿なのです。一つの場所で合同礼拝を行い得ない私たちですし、分断が見える世の中ですが、まぎれもなく主は、「退く」私たちの心に思いを寄せて下さる。