2018年12月2日日曜日

12/2 礼拝と献花とアドベント


  礼拝後、クリスマスの飾りつけをいたしました。
 徳山教会の壮年たちです。
  設置しましたが、まだ光は見えません。昼間ですものね。

  アドベント第一主日の献花でした。

  子どもたちが、教会の方々と一緒にツリーの飾りつけです。
 この木は、右のご婦人が教会に植えたものです。

アドベントロウソクたてと燭台です。
 手前の黒いお皿は、子ども用のアドベントロウソク立てです。

 今週、来週と礼拝は以下の日程で行われます。

 12/4 火曜日   午前 水原牧師 柳井 

          15時 徳山聖書研究会 
 
 12/5 水曜日   牧師 出張

 12/6   木曜日   牧師 呉安浦 出張

 12/8 土曜日   牧師 大阪 出張
          13時 益田市小浜礼拝 休会といたします。 
             14時 益田教会礼拝 家庭礼拝といたします。
             19時 六日市礼拝 家庭礼拝といたします。

   12/9 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝


いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。



【ルカ19章28-44節】
 史上初のキリスト教の讃美歌は何か、という問いを考えたことがあります。時代が古い歌はいくつもありますが、「キリスト教の」讃美歌と限定した時には、今日の聖書に登場する文言もその候補の一つです。弟子たちが主を「主に祝福、天に栄光」と歌いかけるからです。賛美とは、神さまや主をほめたたえるものです。しかし弟子たちの賛美の言葉はさらにその由来をさかのぼることが出来ます。主降誕時の天使による讃美歌です。

 主降誕時、天使たちは「天に栄光、地に平和」と歌います。しかしここで弟子たちは「天に栄光」のみを歌うのです。なぜ「地に平和」と歌わないのか。弟子たちの単純なミスかもしれない。一方で弟子たちは主に「地の平和の実現力」を見出せなかったのかもしれない。主は確かに神さまのご栄光を、奇跡という形で示されましたが、一方で宗教者たちとは軋轢を深められる一方でした。また主ご自身もこのエルサレム入城に際して選ばれた乗り物がロバの子。それらを総合的に見て弟子たちは主に幻滅したかもしれません。

 主がロバの子に乗ることは、旧約聖書の預言に従っての事でした。「主が聖書に従った」ことは、「神に栄光を帰す」ことです。しかし「ロバの子に乗る姿」はいかにも貧相です。外見だけで弟子たちは判断した。また歓声をあげて出迎えた人々も、その数日後掌返しをしてしまった。なぜ主はここで「まだ誰も乗ったことのない子ロバ」を求められたのか。それは、「どんな小さなものでも主が用いて下さる」ことを表すためでした。

 主はこの後、「地の平和」のために十字架に架けられます。「地の平和」とは、大きな意味では世界平和ですが、小さな意味では「地上の一員である私の平和」ということです。主は私の平和と平安のためにクリスマスにお生まれになったのです。その主が教会の礎となり、今の私たちの傍に居るのです。教会が無かったら、私たちはきっとそれぞれの場所で苦労しつつ生きていたでしょう。今も苦労は変わりません。しかし私たちに休み処があるのです。「天に平和、地に栄光」私たちは今年も主にこの賛美を捧げたい。




2018年11月25日日曜日

11/25 礼拝と献花と深谷峡

  11/25 礼拝後に、皆さんでクリスマスの飾りつけをしました。
 これは、大人たちがツリーを設置し、子どもたちが木を飾りました完成形です。

  11/24 六日市礼拝前に、深谷峡温泉に行きました。
 深谷峡からの夕景です。

  11/25 クリスマスの馬小屋です。手前の天使は、今週召天記念日を迎えられる
 益田の会員の作品です。
  11/24 深谷峡の橋上から見下ろした図。怖い。

  11/25 礼拝後に、教会のおじさまたちが礼拝堂を飾りました。
 これが徳山の礼拝堂です。
11/25 教会員が、散歩の途中で拾った木の実にニスと防腐処理をしました。
 その木の実を、別の教会員がリースにしました。
 左下のリボンは先代リースのリボン。
 リースに巻かれているキラキラは、リース作成の教会員が、ご息女の幼少期に、
 ご息女と共に作られたものとか。つまり、皆さんの合作ということです。

 今週、来週と礼拝は以下の日程で行われます。

 11/27 火曜日   午前 水原牧師 柳井 


          15時 徳山聖書研究会 
 11/30 金曜日   牧師 呉 安浦で奉仕

 12/1   土曜日 13時 益田市小浜礼拝 休会といたします。 
            14時 益田教会礼拝 通常通り行われます。
            19時 六日市礼拝 通常通り行われます。

   12/2 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


【マルコ13章24-31節】
 聖書は「終末」を主の言葉として語ります。主の時代は、文字通りの「世の終わり」が来ることが信じられていました。終末思想がはびこっていたのです。その背後には、乱れる世の中と天変地異がありました。人々は現世にうんざりし、新たな世を待ち望んでいたのです。今日は、この終末思想が流行ることはないでしょう。むしろ終末の言葉は、個々人の地上の命の終わりとして、立場と視点を変えて語られるようになっています。

 聖書冒頭の「天変地異」で語られていることの大半は「光が見出せなくなる」ことです。例えば私たちも、私たちの身近な人も、そのような知らせを、人生の終末に向けた「ある日」唐突に受けるのです。「光が見出せない」「先の見通しが立たない」思いに至ります。ちょうど2000年前のユダヤの人と同じく。「その時」と聖書は続けます。「人の子が速やかに到来する」苦難の折には、主が速やかにお出で下さり、渦中にある人を助けて下さるのです。「主が共にいる」という、当たり前の事がここで改めて語られるその意義は何か。

 「先が見えない」とは、文字通りの苦難の時です。その苦難の時には、主への信仰を保つことは難しい。聖書は迫害を乗り越えて今日に至る書物ですが、中には迫害という苦難に耐えきれない人々もあったでしょう。その意味で私たちも同様です。今、苦難に直面している方があるとして、聖書はその私たちに語るのです。「主はそばにいる」と。今日この時、聖書の言葉を心に納めたい。不確定だけど、有事にはみ言葉を思い出したい。

 聖書はただ言葉だけを語りません。視覚的にも訴えます。主はイチジクの木が、巡る季節の中で豊かに葉を付けることを語られます。この時主のみ前には寒空に佇む木しかありません。なぜなら聖書の時期は二月か三月だったからです。今は葉が無くても、やがて葉をまとう。「冬が来たのだから、春が遠くであるはずがない」。「止まない雨はなく、晴れない曇りもない」。今、抱えている状況は、主の御心の中で必ず変えられて行くのです。その様相は示されませんが、私たちは主と共にいかなる時でも歩んでいきたい。

2018年11月21日水曜日

11/18 礼拝と献花





 11/18 ついに暖房を入れました。さすがに寒い朝でした。

 今週、来週の教会行事予定は以下の通りです。

 今週、来週と礼拝は以下の日程で行われます。

 11/20 火曜日   午前 水原牧師 柳井 



          15時 徳山聖書研究会 

 11/21 水曜日   地区女性会連絡会 厚狭

 11/24   土曜日 13時 益田市小浜礼拝 休会といたします。 
            14時 益田教会礼拝 通常通り行われます。
            19時 六日市礼拝 通常通り行われます。

   11/25 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝
     礼拝後、クリスマス飾りつけ


いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


【マルコ  12章41-44節】
 2レプトンとは、今の貨幣価値に直すと50円です。貨幣単位に直すと一円玉2枚です。私たちは、50円玉や1円二枚ならば捧げられるかもしれません。しかし金銭とはあくまでも主観的なものです。この女性にとっては、2レプトンが(手持ちの)全財産でした。私たちは、財布を丸ごと献金箱に入れることが出来るか。とてもそれは出来ない話です。しかし主は、私たちを落胆させるためにこの話をなさったのか。見て行きましょう。

 まず、主はこの女性の何を誉めたのか。読んで分かるように「全“財産”を捧げた」ことですね。これが厄介なのです。「この女性が、全財産を捧げた。だから私たちも、財産を…」というように、み言葉の解き明かしの要点が「お金」に傾いてしまうのです。しかし主はがここで“財産”と言われたお言葉は、果たして“金銭”なのか。確かに主の言われた言葉には“金銭”という意味も含まれます。翻訳者は、場面が献金箱という背景から、主のお言葉も熟慮の末に「財産」としたのでしょう。しかし非才から言えば違います。

 主の言葉として翻訳されている「財産」とは、多様に解釈できる言葉なのです。「生き方」「考え方」「在り方」などです。主が評価なさったのは、この女性が「お金」を捧げたからではない。置かれている状況の中で、自分に出来ることを考えて、その結果として捧げたということを評価なさったのです。主の眼差しには、当時の宗教者の一部にあったような「金づく」の考えはありません。むしろ、それぞれの状況を見て下さるのが主です。

 それでは「全部」ささげたことはどうなるか。その答えもこの女性が示します。結論は「出来ない」「無理」という思いも捧げものになるということです。この女性が、2レプトンを捧げるにあたって、無心で捧げたということはないでしょう。今日や明日、今後を憂う気持ちの中で捧げた。当たり前のことですが、主は捧げものだけを見られません。捧げたわたしの心の中をも見て下さるのです。だから、私たちは「お金」だけを捧げません。むしろ、捧げた自分自身を、この一週間も用いて下さいとの祈りを捧げましょう。