2014年11月16日日曜日

11/16 礼拝メッセージと献花





 本日の礼拝献花です。「あかときいろ」は、ちょうど今の時期の
山の遠景ですね。冬の前、ひと時ですが、景色が眼の保養となります。

 本日は、礼拝後に高菜おにぎりと味噌汁の愛さんを頂きました。

 来週も礼拝は、11/23(日)10:45~行われます。

 どなたでもご自由にご参加いただけます。
 どうぞお集まり下さい。

 本日の礼拝メッセージです。




説教要旨】 マタイによる福音書251-13節 
イエスさまの時代、人の生涯が船と例えられました。当時は風力船、人力船でした。時代は今日、便利になりましたが、根底の人間の姿は変わらないでしょう。周囲の波風に先行きを定められる私たちです。聖書の話は結婚式の話です。一読して分かるように、5人の不注意な乙女は文字通り「油断」しました。「油断してはいけないよ」が、話の要点として感じられます。

洋の東西を問わず、昔話には「愚でなく賢」という類型があります。その類型に洩れず、私たちは「賢」を望みます。しかし実際の自身はどうか。「油」を持ちうる時、枯渇寸前の時、皆無の時があることを知ります。伝統的な結論は、賢女に倣い「油」の備蓄をしよう、です。今は例え皆無であっても、「終末→命の終わり」に向けて蓄える勧めが為されてきたはずです。

しかし「待ちくたびれる」乙女たちの姿にも着目したい。「賢女」も「愚女」も寝てしまいます。確かに結論は「覚醒しなさい」ですが、そうなり得ないのです。緊張感を持ちつつ生きることは大切でしょうが、そうなり得ない人の姿も語られることが恵みです。そこで、誰の心にも浮かぶ「なぜ、賢女は非寛容だったのか」ということに、大いなるヒントが隠されます。

なぜ賢女は非寛容かが大切です。「油」とは他者に分け得ず、分け得ない物のたとえです。それは心持ちです。キリスト教的に言えば、「花婿→主と共に居たいとの心持ち」。一般的に言えば、「心持ちを前に向けて生きる願い」です。それらは、他者に分け得ません。しかし、賢女が「愚女」に関わりをもったように、私たちも、生き方は分け得ずとも、関わりは持つ事ができます。波風多い日常の中、喜びを自身が持ち、その喜びを他者に関わる日々でありたい。