2014年12月7日日曜日

本日の礼拝献花でした。先週に引き続いて、白い小ぶりのかわいらしい花が
 周辺を覆っています。

 本日の礼拝は、聖餐式を伴うものでした。
 小さな子どもも含めて、神さまの祝福に預かりました。
 礼拝後は豚汁、しそわかめのおにぎりを頂きました。

 来週も礼拝は、12/14(日)10:45~行われます。


  これは現在制作して頂いている、「洗礼盤」です。

  別角度から。中央のくぼみには、今まで用いていた
 素焼きの陶器の洗礼盤が入れられるようになります。
 今あるものが用いられる。素晴らしいですね。

これが、フタになるということです。
 やがて頂上には、十字架が付けられるということです。

 本日の説教要旨は以下の通りです。

 

説教要旨】 マルコによる福音書11-8節 
東アジア文化圏では「道」という言葉に、実際的な意味(道路)と象徴的な意味を与えています。生き方や人生です。そもそも「道」の字は、「首」が始まり、シンニョウは終わりを表すということです。ですから、一言で始めと終わりを表すのです。聖書世界でも、「道」の言葉をイザヤが用いています。即ち、私たちの生き方や人生を整えよということを、イザヤもヨハネも語ります。

ところが、私たちから始まる、神さまへの道はまさに荒野の如しでしょう。路面は荒れ果て、降り口を示す矢印の先は種々の誘惑があります。PASAという名の教会でしばしの整備や補給を行い、ゆっくりと行くのです。「道備え」が旧約からの使信ということは、開通は困難を極めるということです。少しずつ、私たちが荒野を行く中で整えるのです。目標を目指して。

それでも「道備え」は困難。このヨハネの道も同様でした。彼は領主ヘロデと衝突します。人気を恐れたヘロデに権力者の暴を振われます。これがイザヤやヨハネの語る限界。単独作業は難しいのです。しかしヨハネは日課最後「私よりも優れた方」を語ります。イエスさまにはヨハネは師でして、その師を道備えで失う。だから主は私たちに道備えを語らず「私が道」と別書で語るのです。

主も私たちの道が荒廃していることをご存じです。だから「私があなたの道」と語られるのです。注意したいことは、元来の私たちの道は変わりません。み言葉を頂いても、路面は雑で諸所には誘惑があります。躯体は疲労し易いのです。だが、イエスさまの降誕以降、「私が道」と言われた主があなたに同道します。始まりから終わりまでが「道」の意味すること。そのお言葉通り、地上の生涯の完成(終わり)まで、アルファからオメガまで主が同道されるのです。