2018年1月28日日曜日

1/28 礼拝と献花

  以前捧げられたランの花が、今日も玄関で皆さまを迎えていました。

こちらは本日の献花。暗い礼拝堂に、十字架の光と献花というアングルが好みです。

 山陰では、今年二度目の豪雪により礼拝をお休みとせざるを得ませんでした。
 
 徳山では本日も礼拝が行われ、礼拝の中では
1 風邪や体調不良で休まれている方のこと
2 研修や仕事などで来られない方々のこと
3 先週献品された、膝に乗せるための小さな机のこと(特に車いす用)が祈られました。
 
 礼拝後にはクリームスープとおにぎりの愛さんを頂きました。

今週の教会行事は以下の通りとなります。

1/30 火曜日 聖書の学び 15時より

2/3  13時 益田市小浜礼拝
    14時 益田教会礼拝
    19時 六日市礼拝
2/4 10時45分 徳山礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。



【マルコ福音書121-29節】
 「説教」という言葉は、本来の意味を越えて学校、家庭内で用いられています。「教えを説く」という本来的な意味について言えば、「宗教の教義を分かり易く伝えることが期待」されています。主の時代の「説教」の仕事は、おおむね律法学者と呼ばれる人々がその任に当たっていました。が、その説教の内容は「解説」であり、「古人の解釈の受け売り」「聖書研究」のようなものだったのです。聖書の専門書、解説書朗読を聞かされるものだったのです。

 それが果たして聞く人の骨肉となるか。間違ったことは言いません。時代の洗練を経た、正しい解説です。でも人々が望むのは、「時代の洗練を経た正しい解説」と共に、「私の状況に合う神さまの言葉」のはずです。しかし律法学者は、本来的意味の説教でなく、解説に終始した。なぜなら彼らは、聖書の言葉とその解説を丸暗記し、伝えることこそが正しい宗教教育と考えていたからです。一方主の言葉に人々は「権威」を感じました。その権威とは、神さまのお力です。「神さまが、自分たちに、主を通して語って下さる」と感じたのです。

 主がお入りになった会堂に、自身の内なる声に悩まされている人がいました。主のお言葉に「かまうな」と口走ります。主の言葉に「かまう」要素があったのです。具体的な内容の特定は出来ませんが、主の宣教開始の声に「神の国は近づいた」があります。「神さまが近付いて下さる」という、従来の教えの範囲ではあり得ない言葉に彼は動転したのです。また彼は「ナザレのイエス」と呼びます。主が誰であるかを知るのです。狭い世界のことですから、主も彼がどこの誰であるかを知っていたのでしょう。主も、そのような彼に近づくのです。

 「悪霊が近付いて、悪霊の仕業で病む」と信じられていた時代、宗教者の言うことは「いけにえを、金品を捧げれば癒される」でした。そのような時代に、主の「神さまが近付く」という説教が彼を癒したのです。神さまや主は、その言葉をもって私たちにも近づかれます。この一週間、私たちには神さま以外の様々なものも近づくでしょう。苦難や災難、痛みやうめきの最中にはそれに没頭してしまいます。と同時に、主がその私を支えられます。