2014年10月5日日曜日

10/5 礼拝献花とメッセージ






本日の礼拝献花、色とりどりの菊でしょうか。
昔から、祈りをもって教会に捧げられたものは、
必要とされる所に捧げられるという慣行がありました。

この礼拝献花も、お身内が召された会員の所にもって行かれます。
祈りの献花が、慰めの献花に替えられます。

礼拝後には、お味噌汁、黒米ご飯のおにぎりを頂きました。

来週も礼拝は、10/12 10:45から行われます。
どなたでもどうぞご自由にお越しください。

本日の説教要旨です。新共同訳聖書の35頁からです。




説教要旨】 マタイによる福音書1821-35節 
聖書の内容は多岐に渡りますが、伝統的に大切にされてきた教えは「赦し」です。本来は「神さまからの赦し」なのですが、「私たちが誰かを赦す」という教えに替えられてしまっています。今日の聖書にはペトロが登場し、主に、赦しは7度までかと問います。完全に赦すべきかと問うのです。主は、7*70の赦し、つまり超完全に赦せと教えるのです。思わずうなります。

そもそも赦しの回数を数えている時点で赦したことにはならないでしょう。主はけれど、この後、不思議な例えを話します。王さまは家来の借金を、初めは全財産を充てて弁済するよう命じます。平身低頭の家来を王は赦します。その足で家来は仲間の借金を赦さず受牢させます。王はこの家来を二度目は赦さないのです。「○○の顔も三度」以下の、救いようのない話です。

ですから、主は前半では「細心の赦し」を語りますが、後半では「赦しの放棄」を語るのです。聖書の話としては救いようがないが、これがいわば現実でしょう。赦されたにも関わらず、誰かを赦せない者は、このような末路を遂げるという意味です。この家来の姿は、残念ながら私たちの姿でもありましょう。「救われる、赦される者は誰もいない」ということになります。

 自身をタナに上げて人を貶める姿の醜さを、私たちは真摯に反省したいのです。けれど聖書は、それだけを語りません。当初王は家来に、借金の代償として全財産の弁済を命じます。本来なら私たちの罪はそれに相当します。だが主は、本来の私たちの弁済を自らが代わりに為したのです。それが主の十字架です。私たちの代わりにご自身を代償となさり、更に復活されたのです。私が誰かを赦そうか、以上に、私たちがここまで赦されていることを想起しましょう。