2017年3月12日日曜日

3/12 礼拝と献花

礼拝堂に捧げられた鉢植えの献花を、教会の姉妹が植え替えました。
感謝です。

こちらが本日の献花。


 今週も徳山、益田、六日市では以下の礼拝、集会が予定されています。

3/14(火)15:00 徳山 聖書を学ぶ会

3/16(木)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町礼拝
      19:30 六日市礼拝

3/19(日)10:45 徳山 礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書20章17節-28節】
主の受難予告の後、ある母が息子たちの栄達を願いますね。息子たちを思う母心を見て取れます。母とされた者は、幾つになってもその子を案ずるものです。一方で、神さまも我が子主イエスを案じています。だが神さまは自らの子を活かさず、一旦は十字架に引き渡すのです。四旬節という教会暦のとき、まず覚えたいことが神と私たちとの違いです。

だが他の弟子たちはこの母子に立腹。何に腹を立てたのか。この憤りは何が理由か。抜駆けの栄誉獲得宣言でしょうか。苦難を受け得ると明言した二人への焦りでしょうか。母が願った、母に願わした点でしょうか。主の受難予告後の身勝手な発言への憤りでしょうか。断言はできず可能性の一つを挙げているのですが、そのどれもが真なのでしょう。

しかし主は、仕えるという自身の姿勢を最後にお話になります。実はこの母は、聖書で味わい深い場面に再登場します。主の十字架時、主の最期を見届ける眼差しの中の一つなのです。この母の心は如何でしょうか。大言し、そこに居ない息子への恥の心でしょうか。十字架上で、このような母の心を主もご存じだったのです。復活後の主は、その御用のため二人を整えて行きます。やがて盃を(殉教)飲む二人。整えられていったのです。

教団讃美歌510は、母の日の讃美歌として知られていますが、これは実は史実に基づく讃美歌です。息子の放蕩や我儘や不品行を見兼ねたある母が、教会の神父に涙ながらに相談します。すると神父は「あなたの涙の子は滅びない」と力強く母に告げるのです。「涙の子は滅びない」皆さんの、涙しつつ祈る対象は決して滅びることはありません。主の守りの中で今日と言う日を生き、今週の日々を過ごすのです。だからこそ私たちも、主が勧められた「仕える」つまり、身近な所でお世話するという働きの一つに加わりたい。
 

2017年3月8日水曜日

3/5 礼拝と献花


 先週の献花です。春の花が所々に飾られたすてきなものです。

 日曜日には礼拝堂大清掃が行われ、そのために花も受付に飾られています。

 先週の日曜日はひな祭りにちなんだ昼食でした。おおぶりあさりの澄まし、ちらし寿司でした。

 今週も徳山、益田、六日市では以下の礼拝、集会が予定されています。

3/7(火)15:00 徳山 聖書を学ぶ会

3/9(木)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町礼拝
      19:30 六日市礼拝

3/12(日)10:45 徳山 礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書4章1節-11節】
主は自ら、誘惑を受ける心がお有りでした。神さまも主を、荒野に導きます。私たちは気付かぬ内に誘惑に直面するのですが、主は誘惑へにどう立ち向かうかを教えるため、自ら誘惑を受けられる。神さまも私たちに教えるため、主を誘惑へと導く今日の聖書です。

「誘惑」とは、その当人の欲する所を突く物です。悪魔の姦計です。前述のユダは、会計係として主一行の懐具合を心配する者でした。悪魔はユダの金銭への思いに付け入ります。主の場合、悪魔は宣教熱意を見込んで仕掛ける。主の熱意は神の愛を知らせること。

誘惑その1:言葉だけの愛でなく、パンを伴う宣教なら効果は倍増でしょう。主の元に行けばパンが貰えるという噂は広まり易いものです。誘惑その2:高所から飛び降りで壮健を示せば、こちらも効果は倍増。主の力にあやかる願いを持つ人々も集まり、宣教はスムーズに進むことでしょう。だが主は誘惑を退けます。実際、悪魔の誘惑が無くとも、パンを示し、壮健を示すことは主には可能です。では、「主は自分にも奇蹟力が備わるから、悪魔の誘惑を退けた」ということなのでしょうか。誘惑を退けた主の本心は何でしょう。

それは第三の誘惑で明確になります。これも主の熱意を見込んだ誘惑です。主がこの世の国々の皇帝となればどうなるでしょう。主が全ての人々に洗礼命令を出し、人々は洗礼を受け、100%のキリスト教世界が誕生するのです。だが主は悪魔の誘惑を退けます。それは直前の箇所、洗礼を受けた際の主への言葉に明らかです。主は何のために洗礼を受けたか。主は一人一人と出会い、共に生きるため洗礼を受けたのです。だから誘惑も退けた。

「共にあることを喜びとされる主」を聖書を通して聞いてきました。そのことは、今日から始まる四旬節でも同じなのです。この一週間、主の使信を大切に過ごしていきたい。

2017年2月26日日曜日

2/26 献花と礼拝



本日の献花・・・先週の献花が一週間守られて、今週も飾られました。

本日も所要や病気でお休みの方が多かったのですが、それでも礼拝と愛さんが行われました。

今週はもう三月。ついこの間正月を迎えたばかりと思ったのに、早い時です。

今週の予定は以下の通りとなっています。

2/28(火)15:00 徳山 聖書を学ぶ会

3/2(木)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 教団益田教会での「世界祈祷日礼拝」との合同

      19:30 六日市礼拝

3/5(日)10:45 徳山 礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書17章1節-9節】
聖書登場のモーセは旧約の偉人ですが、角を生やす造形の美術作品があるのです。ミケランジェロのモーセ像然りです。中世の聖書は、モーセが十戒受領後に「角を生やす」と記すことを原因に、美術家が「角を生やす」作品を作ったのです。旧約ヘブライ語で角と光は同じ綴りのため誤訳、行き違いが発生したのです。私たちも輝かしい顔をしているか。角を生やすか。今日の聖書直前で、主に角突き合わせてつっかかる人物がいます。主の弟子、ペトロです。

主の受難予告を巡ってのことです。ペトロにとって主は栄光の人で、苦しみとは無縁であるべきでした。一方主は受難の心を示すために、特徴的な弟子三名を選び登山の伴とします。そこで主の顔が輝く。日本聖書協会は、主の顔に角は生やしません。主の神性に重きを置くペトロには夢のような光景でした。口を挟み、主をこのまま留めようとするのです。

「仮小屋を作りましょう」と言います。この小屋は、十戒を収納し、貴人を載せ、祖先の苦難と神護を覚える、これ以上はない尊い家屋です。だが主は、栄光の姿に留まるを望みません。山を降り、人の子として今後も生きる心を示されます。「山を降りる」とは主の今後を象徴する一語です。高所の栄光でなく、貴人でもなく、人と共に生きるのです。

雲の覆う時に声があります。主の受洗時とほぼ同じ言葉です。受洗時、主はヨハネに、自らの受洗根拠を「正しいこと」と宣言しました。人々と共に生きる決意を「正しい」としたのです。そしてここでも主は山を下り、共にある姿、生きる姿を示されます。来週から四旬節です。いよいよ主が十字架を見据えて生きるのです。主が共にあるのですから、それ故に私たちは「角を生やす」ような日々でも、その私と主が共にあることを覚えたい。