2021年6月14日月曜日

6/12.13 礼拝堂

 

 6/14(月)朝の徳山の礼拝堂です。

 外は曇り、しかし東側に位置している礼拝堂後方のステンドグラスからは、

 朝の光が差し込んでいます。

 6/13(日)防府の礼拝堂です。

 この時期は、聖霊降臨節としての礼拝が行われています。

今週、来週の予定は以下の通りです。

どちらの集会・礼拝もお気軽にお尋ねください。

6/14 月曜日 全国常議員会(ZOOM)

6/15 火曜日 兵庫県牧師会(ZOOM)

6/16 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝は、短時間での集会となります。 

6/19 土曜日 15時 柳井C礼拝  

6/20 日曜日  10時   徳山C聖書の学び
        10時45分 徳山C礼拝 
        15時30分 防府C礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

■ マルコによる福音書4章26~34節 (新共同訳聖書、新約68ページ)

■ 説教              「今は小さな種でも」

 主イエスのたとえ話には、主ご自身による解説が付けられているものもあります。一方で今日の箇所は、明確な解説は無く、想像が膨らむ箇所となります。全体としては「神の国」のたとえですが、語られているものが何を表すのかは、読むたびに新たな思いが与えられます。教会が培ってきた聖書読解の伝統の中で、定まった理解はあります。それを踏まえつつも、私たちは今という状況の中で、この話を通して示されることを聞いて行きましょう。

 

 それで「神の国のたとえ」です。これは「み国」ではなく、「神さまのご統治」という意味で、「神さまがこの世をどう見ておられるか」ということです。「蒔く人は神さま、種はみ言葉、土は人の心。育ったみ言葉は、実として他者を満たす源となる」というものです。話を聞くのはガリラヤの人々で、「辺境の人」として、中央から蔑視されていた人々です。主はその人々に、神さまの種を成長させる力があり、他者を満たすという、祝福の約束を語ります。

 

 「からし種のたとえ」は、理解に幅があると思います。種は、「み言葉」というより「主イエス」と理解できます。神の御子でありながらも主は、一人の子としてこの世にお生まれになりました。しかし今は大樹として、大勢の人の拠り所となっています。或いは「私たち」という理解もできます。かつては小さな存在であった私たち、しかし今は、誰かの拠り所となっています。「行い」、何ができるか、ではなく「存在」、そこに居ることが誰かの支えなのです。

 

しかし時に、「空の鳥」としての私たちも居ます。週日の私たちは、懸命に羽ばたいてこの世を渡りゆくものです。時には逆風、時には風雨で飛ぶこともできない。週の終わりと初めに、主と先人が築いた教会という大樹、主イエスという大木に羽を休め、また羽ばたくものなのです。やがては、大樹となりたい。あるいは、週日は大樹なのかもしれない。必要とされていることを思いつつ、今は小さな種として、主による栄養と支えを頂いて、生きたい。

 





2021年6月2日水曜日

5/29.30 外の花壇と礼拝堂

 

 5/30(日)の防府チャペルの礼拝堂となります。

 三位一体主日の色は白。来週からはしばらく、緑の典礼色が続きます。

 5/29(土)に行われた、徳山チャペル外の花壇奉仕

 ・・・こちらではありません。

 こちら、ペチュニアと思われます。

今週、来週の予定は以下の通りです。

どちらの集会・礼拝もお気軽にお尋ねください。

6/2  水曜日 19時 六日市チャペル礼拝は、短時間での集会となります。 

6/5 土曜日 15時 柳井C礼拝  

6/6 日曜日  10時   徳山C聖書の学び
        10時45分 徳山C礼拝 
        15時30分 防府C礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

 

 ヨハネ福音書3章1~12節 (新共同訳聖書、新約167ページ)

■ 説教              「神は万事を益と為す」

日課の直前、主が神殿で行った「宮清め (2:13-22)」は、当時のユダヤ教の構造を真っ向から否定するものでした。「人は自らの罪の代わりに金銭や動物をささげ、赦しを頂く。祭司は金銭や捧げられた動物の半分を頂き、あとは神殿の収入となる」という構造を、一時的でも破壊したのが宮清めでした。ただ「神殿を壊せ、三日で立て直す」という主の言葉に、複数の宗教者が興味、関心を抱きました。そのうちの一人が、ニコデモでした。

 

ただ、出来事が衝撃的だったので、主を昼間に訪問することは考えられませんでした。呼び付けることも選択肢でしょう。しかし主への敬意ゆえ、人目を憚って夜、尋ねました。開口一番、主の大胆さ(1)を称賛します。社交辞令でなく、本心からの賞賛でしょう。しかし主は、ニコデモの訪問の目的を察します。「大胆さの源」を知りたいという思いが一つ。そして、過越祭の元来の意味を深めること、つまり「新しく生まれる」ことへの熱望でした。

 

主の「大胆さの源」は、神さまとの関わりにありました。主の時代のユダヤ教は「人間の行い」を起点にし、「その多寡」を問うていました。一方で主は「神の愛」を起点にし、人の行いの多寡は問われません。主は、その神の愛を日課に続く「3:16」で高らかに宣言されています。また、「新生」に際しても同様。「風は思いのままに吹く」と主は言われます。神さまのご意思に任せることを告げます。全てのことは、神さまが良く導いて下さるのです。

 

かつて神はユダヤの人々に「出エジプト後の、新しい生」のため子羊を「導き」となさいました。それが主の時代の「過越祭」でした。主は、「新しい過越祭」のようなものとして、やがてご自身を十字架にて捧げられ、導きのしるしとなりました。ニコデモは、ここでの主の言葉を受け止めたと察します。7章では主を弁護し、19章ではご遺体の主に敬意を表し、復活の主に出会えたでしょう。神さまのご意思とは、今日を生きるあなたと共にあります。