2023年1月17日火曜日

1/14.15 礼拝堂の様子

 

1/15(日) 防府チャペルの礼拝堂です。

 昔はこの日が成人式だったように記憶しています。

 白…牧師の間違いです。

1/15(日)徳山の礼拝堂です。

冬らしからぬ、大雨が降った週の次の日曜日となります。

他県へ出張した後の抗原検査は、どきどき。

今週、来週の予定は以下の通りとなります。

1/18 水曜日 18時 六日市チャペル礼拝 

1/21 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

1/22 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

       15時30分 防府チャペル礼拝

1/25 水曜日 家庭礼拝 六日市チャペル礼拝

1/28 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

1/29 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

◆ ヨハネ 1:29~34 (新164)

■ 説教            「神さまのアフターサービス?」 

「罰」を伴う「罪」という言葉は、社会の中で禍々しく響きます。この「罪」とは、「神さまへの背き」とも言い換え得ます。今日の聖書の直前では、洗礼者ヨハネへの査問が起きていました。査問する側にとり、ヨハネの活動は既得権益の奪取でした。「あなたは、どなたですか(19)」「なぜ洗礼を授けるのか(25)」これらの問いの深奥には、既存の制度に頼り切り、生計を立てる宗教者たちの危機感と、人を集めるヨハネへの嫉妬があるのです。

 

日課で、ヨハネは主と出会います。その際主は「世の罪を取り除く神の小羊(29)」と言われます。ヨハネは、「水での自身の洗礼」は「目前の一人の罪」に赦しの確信を抱かせ得る。しかし主の「聖霊による洗礼(33)」は、「世に生きる人全ての罪の赦し」に関わる、と言います。水/聖霊の洗礼の違いは何か。ヨハネは自身の働きを謙虚に受け止めているのでしょうが、「自身の洗礼は一過性、主の洗礼は永続性」と受け止め、考えているのです。

 

ヨハネは「私はこの方を知らなかった(31.33)」と言います。母同士が親族ですが、祭司の長男と大工の長男で、住む場所が異なっていることから「知らない」とも言えます。ここでの「知らない」は、「人間的な関りがなかった」との意味です。むしろヨハネは、神と主との関り「霊が鳩のように天から降る」と告げます。神が主を支え、主が世に生きる人を全て支えるというのです。その方をヨハネは「神の子である」と証しをし、自身は退くのです。

 

商業的な表現ですが、ヨハネの「水による洗礼」は、壊れたもの(神さまとの関り)の修理。主の「聖霊による洗礼」は、上記に加えて「生涯のアフターサービス」とも言えます。キリスト教会は、皆この「聖霊による洗礼」を受け継いで今日に至ります。近しい所で私たちはこのことを、礼拝と一週間の関係に見れます。礼拝は特定の日の一時間程度。しかし週日私たちは、礼拝を司る主と共に歩む群れなのです。「後ろに仕える」主に導かれています。

 



1/7.8 礼拝と献花と抗原

 

 1/8(日)防府の礼拝堂。

 冬晴れに映える教会です。

 1/8(日)徳山の礼拝堂

 献花はシクラメン。牧師室のシクラメン8鉢に、仲間として加えられました。

 どうしよう…。

1/7(土)朝の抗原検査。C。

 

今週、来週の予定は以下の通りとなります。

1/11 水曜日 18時 六日市チャペル礼拝 

1/14 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

1/15 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

       15時30分 防府チャペル礼拝

1/18 水曜日 家庭礼拝 六日市チャペル礼拝

1/21 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

1/22 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

◆ マタイ 3:13~17 (新4)

 

 説教           「私が生きていることが神の奇跡」 

「私たちが今ここに居る」ことは、控えめに言っても奇跡です。ただし、「複雑な出来事」は続々と現れるため、過去の奇跡よりも今、これからが案じられるものです。主の時代は、一部の「富裕層」「上層階」に宗教者たちが働いていました。その中で洗礼者ヨハネの「洗礼」運動は革新的でした。「複雑な出来事」を抱える中、「回心」「神さまがあなたを見ている」と聞いた人々の喜びを思います。洗礼を希望する人々の列に、なぜか主も加わります。

 

主の洗礼に、マルコ、ルカ福音書は答えを出していません。誰もが不思議に思う主の洗礼とは、何か。「罪の赦し」としての洗礼は、神と自分との関わりのことです。「主の、罪の自覚の可能性」を思いつつ、そこに「触れない」というマルコとルカの見識かもしれません。一方でマタイ福音書の主は饒舌です。「止めないで欲しい、正しいことを行うのは、相応しいことです」と。主の中では、「洗礼を受けること」は「正しいこと」と結びついているのです。

 

主の父ヨセフがマリアの妊娠を知った際、彼は「妻と子の命を守る」決断をし、聖書はそれを「正しい人」とします(1:19)。律法学者の価値観は「律法順守が正」、ヨセフは、誰かの命を支える決断を「正しい」と決意し、実行したのです。では主は、ここで誰を支えようとしているのか。「罪」とされるものを負わされ、その中で生きる一人ひとりです。神は決して高所に在する方でなく、日々、同じ始点に立つ方を示すため、主は洗礼を受けたのです。

 

洗礼時に、「愛する子(17)」として主が名指しされています。これは、詩編からの引用とされています。しかしマタイは「お前は私の子(詩編2:7)」を変え「私の愛する子」とします。神さまは、旧約の時代に一人ひとりを「宝の民(申7:6)、子」と呼びましたが、主ご自身を「愛する」と、当時にしては破格に呼ぶのです。それに増して、私たちは神と主から愛されているのです。あの十字架を通して、私たちには永遠の命が約されていることを覚えたい。