2023年3月14日火曜日

3/11.12 柳井と徳山、防府の桜

 

3/14(火)徳山礼拝所の献花です。朝の光が、礼拝堂に入ってきます。
3/12(日)防府礼拝所、牧師館の裏手の桜です。

こちらは玄関の桜。その後ろで梅は、ひっそりと花の盛りを終えていました。

華やかな桜、静かな梅。だんだん、梅が好きな年齢になってきました。

3/11(土)柳井礼拝所の様子です。

20年ほど前、地区で働かれた牧師先生の召天を覚え、祈りがささげられました。

 

今週、来週の予定は以下の通りとなります。

3/15 水曜日 18時 六日市チャペル礼拝 

3/16 木曜日 牧師 広島県出張

3/18 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

3/19 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

       15時30分 防府チャペル礼拝

3/21 火曜日 牧師 兵庫県出張

3/22 水曜日 家庭礼拝 六日市チャペル礼拝

3/25 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

3/26 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

 

■ 説教           「心の嘆きを包まず述べて」 

「サマリアの女」は、私自身です。主イエスへの関心より、自身のことで手一杯です。しかしこの女は、主との関りを通し、心を開くよう、導かれたのです。同じことが言えます。ヨハネ福音書には冒頭に、異なるタイプの二人を記します。一人はニコデモ、ユダヤ人の議員、教師、主に傾聴する人。もう一人はサマリアの女。サマリア人で、しかもその町からも疎外され、主に興味がない人。しかし主はこの女性が、心を自然と開けるように導くのです。

 

正午頃「サマリアの女が水を汲みに来た(7)」とあります。「過越祭(3章)」の後、4月と仮定すれば、日中はやや暑気です。そして、朝からの家事用水を、昼に汲む事から、女性に何かを見出せます。「五回の結婚と、離縁状(17)」。当時の離縁制度は「夫が妻に何か恥ずべき所を見出したら(申24:1)」の律法が典拠でした。「何か」を察する人々により、彼女は町から疎外されていました。その中で彼女は、疲れている男を井戸端で見るのです。

 

彼女は「サマリアとユダヤの差(9)」を主に告げます。旅疲れの主(6)は、対話の中で(7-14)女性に「心の渇き」を気付かせます(15)。「差」が鍵です。これはイザヤ、エズラ記に記載されます。要は、過去サマリア地方が見捨てられ(イザヤ)、神殿を一緒に再建しようというサマリア側の申し出を、ユダヤが拒否した(エズラ4:1)ことがありました。女性は、拒絶されたサマリアの「差」、昔を踏まえ、今も自分は拒絶されている状況を言うのです。

 

先週のニコデモとの話に共通するのは、現状への嘆きと、あきらめと言えます。人は、心に多くを抱えつつも、それを自己の問題として押し込めてしまうのです。しかし主は、この女との対話を通し、その心を出せる場所としてのご自身を示すのです。「魂の飢え」を覚えるのは、私たちも同じでしょう。「霊と真理をもって礼拝する」勧めがなされます。しかしその原点は、主に「窮状を話した」ことでした。「自己の問題」を、祈りを通して主に語りたい。

 

 

 

 

 

 

2023年3月7日火曜日

3/1(六日市).3/4(柳井)、3/5(徳山と防府)

 

3/1(水)六日市礼拝所の「享保びな」です。

その名前の通り、享保時代の産物とのことです。

3/7(火)朝の徳山礼拝所です。

典礼色は紫、献花も紫を捧げて頂きました。

礼拝の中では、世界祈祷日の祈りがささげられました。

3/5(日)午後の防府礼拝所です。梅がますます咲き誇っています。
3/4(土)柳井礼拝所です。

こちらも典礼色に併せた献花でした。

 

今週、来週の予定は以下の通りとなります。

3/8 水曜日 18時 六日市チャペル礼拝 

3/9 木曜日 牧師 兵庫県出張

3/11 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

3/12 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

       15時30分 防府チャペル礼拝

3/15 水曜日 18時 六日市チャペル礼拝

3/16 木曜日 牧師 広島県出張

3/18 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

3/19 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

◆ヨハネ 3: 1~12(新167)

■ 説教             「年を取ったものの成長」 

 主イエスによる「神殿の宮清め(2:13~)」が、この日の聖書のきっかけでした。主は神殿に乗り込み、門前で動物商、両替人たちを追い散らし、利得を大声で非難したのです。主が非難した「祭儀規定(例:レビ3)」は、出エジプトの最中に定められた、旅の秩序のための規定でした。諍いが起きた場合の、罰と、謝罪の形としての動物の配分を通し、食卓を共にする意味がありました。しかし主の時代、ローマ帝国支配の要素が加味されます。

 

「皇帝の肖像が鋳造された貨幣 (マタ22)」は、神殿使用は禁止でした。しかし帝国支配の中で、貨幣流通は広がります。「献金」を、ローマからユダヤ貨幣に替えるのが、両替商でした。手数料は、商人たちと神殿祭司の懐に納められたようです。主はそこに憤り、宮清めを行ったのです。しかし、現実的には、翌日からまた同じ商売が始められたことでしょう。主の思いは、行為を通し、原点回帰を見聞きした人々を通して、知らせることでした。

 

高位の聖職者であったニコデモが、主の行為に反応します。人目を憚って、夜、主を尋ねます。主はニコデモの訪問の目的を「新たに生まれること」と看破します。ニコデモは「教師」として、「人々の教師(10)」という立場にありました。自身の働きを通し、人々に神の愛が浸透していない現実を知っていたのでしょう。けれども彼もまた、時のシステムに組み入れられた一人として、何も成し得ず、むしろ「新生の方法」を主に尋ねたものと見られます。

 

主は、「新生」とは神の霊の働きで、人知の及ぶことではないと告げます。言い方としては乱暴ですが、今は分からないが、その時が来れば分かる、ということです。ヨハネ福音書で主は、「神の小羊」として紹介され、ニコデモにも「人の子が挙げられる」と話します。ニコデモはこの後、二度登場します。7章では未だ未信仰ですが、19章では友と共に、主を埋葬します。委ね、任せていくことを通して、神さまの私たちへの働きを見出したいのです。