2021年7月6日火曜日

神戸教会、神戸東教会、西宮教会、柳井教会、防府教会

 

7/4(日)15時半からの防府礼拝所でした。
こちらは、7/3(土)15時からの柳井礼拝所でした。

会員が足の痛み除去のための手術、療養中です。その方のご息女が

お支え下さっています。

こちらは、7/1(木)西宮教会。緊急事態宣言が明けましたので、

兵庫県3教会を訪問できました。

こちらは神戸東教会。兵庫県三教会の真ん中に位置しています。
礼拝堂です。
こちらは神戸教会。新神戸駅から地下鉄で行きました。

駅からの道は、急坂でした。「坂の町」神戸を実感しました。

 玄関から見た神戸教会です。

今週、来週の予定は以下の通りです。

どちらの集会・礼拝もお気軽にお尋ねください。

 

7/7 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝 

 
7/10 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
 
7/11 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝
       家庭礼拝 防府チャペル礼拝
       
7/11(日)の防府チャペル礼拝は、牧師の大阪出張のため、家庭礼拝となります。
教会員の皆さまには、週報を発送させて頂きます。
お入り用の方はお気兼ねなくお知らせください。

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

 

■ マルコによる福音書6章6後半~13節 (新共同訳聖書、新約70ページ

■ 説教            「思い通りにならない日々の中で」

 今年の春、約60年ぶりに「死海文書」が発見されました。検証の結果、発見されたのはゼカリア書の一部でした。内容もさることながら、見出された場所は「頂上からロープを吊り下げて行ける横穴洞窟」でした。かつて、人々の生活領域を離れ、清貧の生き方を模索する集団がいました。主はその生き方から多くの示唆を得られましたが、むしろ活動の場は町中に求められました。そして日課では、12人弟子を組にして、町中に派遣されます。

 

 なぜ「2人組」なのか。聖書の中で「2人」を探すと、いくつかのことがわかってきます。まず「体の支え」のためです。コヘレト書には「一人よりも二人が良い(4:10)」と示されています。また「心の支え」のためとも言えます。創世記に「二人は一緒に歩いて行った(22:8)」とあります。佳境を控え父は子を、子はその父を支えたのです。歩みの道のりに於いて、中途で倒れて欲しくないとの思いが主の心のうちにあるのです。だから「2人組」なのです。

 

 無論、派遣された先で全てが思い通りにはなりません。その時は「足の塵を落とす(11)」絶縁が示唆されます。冷たく見えますが、実際の所はどうか。弟子たちの成り形(8-9)は、一言でいえば見ずぼらしいものです。初見の対応で「迎え入れず、耳を傾けない」ことは、成り形に由来すると思えます。求められない所ではなく、求められる所に出てゆく示唆です。ここでの主は、強固な伝道スピリットではなく、緩やかで融和的な伝道を語るのです。

 

 強固でなく、緩やかな伝道を語った背景には、当時の社会を主が注意深くご覧になっていたからだと思えます。律法成就の義務と、植民地支配の中の苦しい生活。主も一人の人として、共に辛酸を味わったのです。弟子たちは派遣され、帰還し、主のもとで休みます。基本的に私たちは、この世での歩みは一人です。しかし教会が大切にした言葉には「主が共に歩む」ことです。普段の生活に戻る、私たちの歩みに主が支えを下さいます。

 



2021年6月29日火曜日

6/26.27 厚狭教会と宇部教会

 

 6/27(日)は、宇部教会での礼拝でした。

 シオン教会は、西教区の中で「西中国地区」に位置しています。

 地区の行事の一環でした。

 素晴らしい礼拝堂でした。

6/26(土)は、厚狭教会の礼拝でした。

こちらも、徳山からは一時間強で行ける教会です。

山口県、中西部の町です。

温かみのある礼拝堂でした。 

今週、来週の予定は以下の通りです。

どちらの集会・礼拝もお気軽にお尋ねください。

6/29 火曜日 牧師 広島県出張

6/30 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝 

7/1 木曜日 牧師 兵庫県出張
 
7/3 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
 
7/4 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝
       15時30分 防府チャペル礼拝
       

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

■ マルコによる福音書5章21~43節 (新共同訳聖書、新約70ページ)

■ 説教              「起きなさい」

 昨年の春、私たちの耳目に耳慣れない言葉「ステイホーム」が突然、届きました。唐突に自身の行動が縛られる事実を、戸惑いつつ受容せざるを得なかった私たちでした。ことの是非は後代の判断でしょうが、渦中にいる私たちは、今も随分と不自由な思いを強いられてます。旧約聖書のレビ記15章には、男女の性に関わる規定が記載されています。今の感性からすれば差別的、当時の感性では「普通」とされた出来事に、主が挑まれます。

 

 「社会からの監視と阻害」が「長血の女性」の主に出会うまでの日々でした。「家に留まって」いたのです。一方で主は、「ゲラサ人の地方(5:1)」から帰られました。医者と見なされていた主のもとに、会堂長ヤイロが、娘の生死に関わる助けを求めます。主は湖から町中へ、群衆も膨れ上がります。ここで主の噂を聞いた「長血の女性」が動き出します。「家に留まる」女性にとり、主と出会うことは不要不急でなく、まことに必要なことだったのです。

 

 この女性は、主の衣に触れることによって癒されました。後に主は「あなたの信仰があなたを救った(34)」と言われます。いわゆる儀礼的、典礼的な姿は示していません。主の噂を聞き、すがる思いで身を「起こし」、主の衣に触れた姿を「信仰」と見られます。信仰とは、諦めず、たゆまず、「蛇のようにしぶとく」求め続ける姿をも言うのです。否、むしろここで「起きなさい(41)」という主の御声の思いが、この女性にも既に届いていたとも言えます。

 

 そしてヤイロとその娘。女性が癒されたとき、娘は死に、ヤイロは娘の知らせを受け取った直後でした。主はただ「信ぜよ」と言われます。先と同様に、儀礼的、典礼的な信仰の姿ではなく、女性と同様、諦めず、たゆまない姿を言います。「起きなさい」この声を、ヤイロの娘も私たちも、やがて聞くことになるのです。しかしそれ以前に、私たちは「身を起こし」今週も主のみ言葉に養われるために礼拝に集っています。このみ言葉の中に、命があります。