2022年12月13日火曜日

12/7六日市、12/10柳井前、12/11防府、12/13徳山

 

12/13(火)徳山チャペルの牧師室。

植物園状態になっています。鉢植え。

12/11(日)防府チャペル。待降節第三主日、ろうそくが三本ともりました。
12/10(土)柳井礼拝前の、抗原検査。どきどき。どっきどき。C。

毎週、この日に抗原検査をしています。

12/7(木)六日市礼拝のポインセチア。赤ではなく、濃いピンクのポインセチア。

今週、来週の予定は以下の通りとなります。

12/14 水曜日 18時 六日市チャペル礼拝 

12/17  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

12/18 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

12/21 水曜日 18時 六日市チャペル礼拝

12/24 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

        18時半 徳山 クリスマス・イブ礼拝

12/25  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

◆ マタイ11: 2~11(新19)

■ 説教                「主イエスの意思を継ぐ」 

「風に柳」という言葉があります。今日では「受け流す力」や「スルースキル」となるのでしょう。聖書では「風にそよぐ葦(7)」「しなやかな服を着た人(8)」が、該当します。柳の木が風に逆らわないように、時流の中で身を処す生です。洗礼者ヨハネは、そのような生とは真逆の生き方をしていた、とマタイは告げるのです。しかし、律法への至誠を己が貫くのは兎も角、この世の権力者に至誠を求める生は、投獄(2)という現実が待っていました。

 

「正義の徒として活動したのに」との強い失望感が、ヨハネの胸中にあったと察します。一縷の望みとして、預言した主の活動の様子を聞きます(3)。かつてヨハネは、救い主は鮮烈で、活動は業火の如し(3章)と預言しました。しかし問われた主は、自身の宣教活動の歩みを言われました。マタイ福音書の後半では、主の舌鋒がファリサイ派たちに厳しく向きます。しかし活動前半である今「人々(5)に、福音」を告げる」と主が告げるのです。

 

主によるヨハネへの宣言 (4-6)は、「怒りの神」から「共なる神」への歴史的な転換点「神の姿の回帰」でした。創世記では全存在を肯定した「神」が、一部の旧約時には「熱情の神」となりますが、主は今「ヨハネより偉大である」との「小さいもの(12)」に福音を告げるのです。これも「もう一つの転換」です。5節で、神の正義を求め、抑圧された人々に、「神は、どのような人も偉大」なのだと、「大きくなる」可能性を持つと、主は言うのです。

 

ヨハネは、「祝福された」祭司家の出自でした。両親の家を継ぎ、祭司職に生きることも出来たのです。しかし、自らの家系や職業のみが優遇されている現状に憤り、野に下り、声を大にして、批判に生きたのです。一方で主は、当初から市井の人でした。「声を大に出来ない」一人ひとりに寄り添い、その生き方に神の祝福があることを告げたのです。私たちも、かつてこの祝福を聞き、今また受けているのです。誰かに、主を証して生きたい。

 







2022年12月6日火曜日

11/30.12/3.12.4 益田、六日市、柳井、徳山、防府

 11/30(水)益田チャペルを訪問しました。 

 天候はあいにくの空模様でしたが、教会の方々ともお会いできました。

 2016年に召天された方を覚えて祈りました。

 12/4(日)徳山の庭。青ネギ。
 12/4(日)ポインセチアが防府に飾られました。
 12/3(土)待降節第2主日の礼拝が、柳井でも行われました。

11/30(水)益田のあとに、六日市を回って帰ってきました。

写真は、六日市礼拝での献花です。

今週、来週の予定は以下の通りとなります。

12/7 水曜日 18時 六日市チャペル礼拝 

12/8 木曜日 16時 牧師 大阪出張

12/10  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

12/11 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

12/14 水曜日 18時 六日市チャペル礼拝

12/17 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

12/18  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

◆ マタイ3: 1~12(新3)

■ 説教                   「ただいま、工事中」 

全てのことにつき、失敗とリスクは想定しつつ、懸命に努力します。が、想定外の出来事に失望することもあると思います。「良い実を結ばない木は皆、切り倒される(10)」と洗礼者ヨハネは語ります。厳しい言葉と思えます。これは「回心」を迫る、預言者に特徴的な説教ですが、一読すると、常に100%の結果を求める言葉に聞こえます。意味は何か。洗礼者ヨハネの直面した現状、ヨハネが預言した主イエスの生を、聖書を通して聞きましょう。

 

一般的に預言者とは、神から直接の啓示を受けたという誇りを元に、既成の枠組み内はなく枠外で活動し、世に問題を提起していました。特に、時の宗教者集団の戒律づくめの生ではなく、原点回帰を伝えるものでした。ヨハネの批判は、聖書でも「ファリサイ派やサドカイ派」に向いています。彼らは、自らそれと判ぜられる成り形(23:5~)でヨハネの前に集います。そのこと自体がヨハネを怒らせ、「良い実を…」の言葉を出させたのです。

 

組織維持のためですが、「ファリサイ派」は良い100%の行い、「サドカイ派」は祭儀における規程100%の拠出を求め、神さまは善行で喜ぶと説いていました。ヨハネは彼らに「父(祖先)はアブラハムと思うな」祖先の名を汚している、というのです。神の業は、石からでも全てを創造できる(9)から、神さまの前に「悔い改めよ」と。神さまに方向転換すること、そして神さまを通して力を頂き、「良い実を結べ」と言うのです。そこで私たちの番です。

 

旧約に基づく「律法の達成/祭儀」の達成の思いは今の私たちにはありません。「神から力を頂いた上での働き」を日々行います。その結果には、様々なものがあります。「実を結ばなければ、切り倒す(10)」が、主の立場でしょうか? 否、「ぶどう園の労働者(20章)」が参考になります。「主と共に行く道(3)」は、日々工事中で、段差もあります。行き悩み、つまずくとき、何処までも待って下さる主が、私たちを活かし、支えて下さるのです。