2023年2月8日水曜日

2/4.5 梅のつぼみ(防府)と柳井、徳山

 

 2/8(水)朝の徳山礼拝所。

 少し時間がたった、10時前後です。

2/5(日)防府礼拝所。

梅一輪のたよりまで、もう少し

2/4(土)柳井礼拝所。

献花が良いですね。

2/4(土)早朝の徳山。

一応…。

今週、来週の予定は以下の通りとなります。

2/8 水曜日 18時 六日市チャペル礼拝 

2/11 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

2/12 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

       15時30分 防府チャペル礼拝

2/15 水曜日 18時 六日市チャペル礼拝

2/16 木曜日 15時 牧師 大阪出張

2/18 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

2/19 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。 

◆  マタイ 5:13~20 (新6)

13「あなたがたは地の塩である。だが、

塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも

立たず、外に投げ捨てられ、

人々に踏みつけられるだけである。

14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。

また、ともし火をともして升の下に置く者は

いない。燭台の上に置く。そうすれば、

家の中のものすべてを照らすのである。

そのように、あなたがたの光を人々の前に

輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

■ 説教            「目立たない地の塩でも」 

「地の塩、世の光」は、弟子たちへの言葉です。弟子たちは受け止め、他に伝え、回り回って私たちは「誰もが、大切な存在」だと聞くのです。「自己肯定感」を得られる言葉です。しかし弟子たちが「重荷を負う人、病み患う人々」にこれを伝える時、どう届いたのか。「自己肯定感」とは大切な考えと言えますが、言葉だけで得られるものか。ところが、聖書を読む時に、主の意図に驚きます。そして、弟子たちもやがてこの言葉を実感するのです。

 

 主は、神の原初の創造物という意味での「光」ではなく、「地の塩」から語ります。塩とは、ユダヤでは防腐薬(レビ2:13)、清めの媒体(列下2:21)、調味料(ヨブ6:6)。昔や今の日本と同じです。「給料(salarium:サラリーの語源)」として、塩を買う「俸給」の意味もローマにあったようです。更に、あり得ない「塩から塩気がなくなる」ことから、それぞれに「持ち味」「そのものにしかない役目」を告げるのです。「役割と意味がある」ということです。

 

 では人々の「役割と意味」は、どこで発揮されるのか。主が「地」と語られたことが大事です。畑や砂交じりの土地に塩を撒けば(こぼせば)、その時は目立ちますが、やがて見えなくなります。「地の塩」とは、目立ちませんが、日々の働きなのです。「存在」とも言い換え得ます。一方で、「世の光」は、燦然と輝くもので目立ちます。物事には陰陽があり、目立つものの対照に、支えるものがあります。その意味で主は、話される順も大切にされるのです。

 

 その意味で私たちは「世の光、地の塩」ではなく、「地の塩として、世の光」なのです。働きは見え難く、地道かもしれない。しかし「存在」を誰かが頼りにし、誰かを支えるから、この世は回るのです。第一朗読はイザヤ書です。慣例の宗教行事ではなく、日々自分の気付く所で、気付く善を行う促しです。塩でありたい、否、主が「地の塩」と最初に呼ぶことを覚えたい。仮に「重荷を負い、病み患う」ことがあっても、存在はこの世の「必要」なのです。

 







2023年1月31日火曜日

1/25.28.29 徳山の雪と礼拝堂

1/25(水)朝5時の徳山。5センチの積雪でした。
1/28(土)柳井の礼拝堂。雪解けもして、平和な土曜日でした。
1/29(日)徳山の礼拝堂。朝の光が礼拝堂に来ています。
1/29(日)防府の礼拝堂。穏やかな日曜日の午後でした。

この寒さの中で、ついに、こたつに電気を入れ、居座るようになりました。

今週、来週の予定は以下の通りとなります。

1/25 水曜日 家庭礼拝 六日市チャペル礼拝 

2/4 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

2/5 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

       15時30分 防府チャペル礼拝

2/8 水曜日 18時 六日市チャペル礼拝

2/11 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

2/12 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

 

◆ マタイ 5: 1~4 (新6)

1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。

腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 そこで、イエスは口を開き、教えられた。

3「心の貧しい人々は、幸いである、

天の国はその人たちのものである。

4悲しむ人々は、幸いである、

その人たちは慰められる。

■ 説教            「幸せは、明日起こる」 

「日本の原風景が、徳佐にある」と、身近な引退教職が話されていました。確かに、徳佐に「田畑に川が沿い、奥に山が控える」風景があります。冬も、豊かな自然を感じます。聖書で歌われている自然の中に、詩編42編(口語訳聖書)の「鹿が谷川を慕いあえぐ」が有名です。「谷川」も、原風景であり、豊かな自然の一産物です。ただ原意は「涸れた谷」という新共同訳聖書だと言われます。「魂の飢え」が詩編42編のテーマでもあるのです。

 

「心が渇く、魂が空になる」とは、主が直面していた人々の思いと言えます。私たちは「心が貧しい」とは「精神が未熟」「人間的な難物」と思えます。しかし3節は明確に「神の霊を求める人は(聖霊/プネウマを求める人は)」と記すのです。これは、当人の人間性を問う言葉ではありません。むしろ「詩編42編」が歌う「確かに存在する神の愛、優しさ、導きを乞い求める人たち」「神の愛を語ろうとしない人々への批判」への主イエスの視線です。

 

 同様の理解が「悲しむ人(4)」にも当てはまります。主の居られた地域は「ガリラヤ」で、「病み患う人々」が目前にいます。「悲しみ」とは、誰か他者が思いを向け、他者から心を傾けられることで、無くなりはしないものの、和らぐことがあると思います。主の周囲にいた人々は、共感されることを欠いていたのです。「無関心、寄る辺の無い悲しみ」です。主はその「悲しむ人」に向かい「慰められる」と、慰めの主体となる、と弟子たちに告げるのです。

 

当時、顧みられなかった人に主が思いを向けた。キリスト教の原点です。本日の第一朗読、ミカ書も同様の観点で記されています。「あくどい政治に苦しむ農民」に共感し(ミカ2:2)、北部の惨状を意に介せず、豪勢な奉納物を捧げる富裕層の現状を見(6:5-7)、神さまを支えとする生 (6:8)への勧めが為されます。主は、ミカの言葉を借りれば、自ら「へりくだって」この世に来られ「共に歩む」のです。神の霊を求める、全ての人のために。