2017年2月5日日曜日

2/5 礼拝と献花と先週の献花

 こちらは先週の献花です。場所は変わりましたが、みごとに開花しました。


 こちらは本日の献花です。百合の花が開くでしょうか。きっと開きます。


来週の説教題です。腹を立てるな、に腹がたつ。説教題を付けたときの気持ちそのままです。

本日は徳山Cで聖さん礼拝が行われ、その後総会が有意義な話し合いと雰囲気の中で行われました。

今週の予定は以下の通りとなっています。

2/7(火)15:00 徳山 聖書を学ぶ会

2/9(木)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町教会礼拝

      19:30 六日市礼拝

2/12(日)10:45 徳山 礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書5章13節-16節】
主が最初の活動地として選ばれたガリラヤは、「死の影の地」「暗闇」と言われていました。外部の人々は、ガリラヤ地域とその人々をさげすんでいたのです。けれど主は、そういう人々に「神の国は近づいた」と宣言され、今日また「地の塩、世の光」と言われます。さて、主の言葉を聞いた人々は、言葉の内容や主の真意をどう感じたでしょうか。

自分たちの現状から遥かにかけ離れたことを言われると、疑念が先立ちます。けれど主は「地の塩」と言われます。通常の塩は、素材を引き立てます。隠し味の働きです。誰もが、隠れた働きは出来るのです。目立つことはないけれど、働きの担い手を主は祝します。私たちには、目立った働きは難しいけれど、隠れた働きなら気付くことが出来ます。

一方で光、こちらは目立つ働きです。「隠し味の働き、隠れた働きは出来ても」と思われるかもしれない。まして「見た人が神さまを崇めるようになるなんて」と思われるかもしれない。自分では思うことは多々ある。しかし私は、皆さんの教会内の働きを通して、神さまを崇めます。自身を輝かす、簡単な方法があります。それは、他者に光を見出していくことです。他者に光を見出していけば、私たちの光も見出されてゆくでしょう。

2コリント書(新約聖書)には、光と私たちとの関係を語るパウロの訓話があります。パウロによれば、私たちは光を収めている土の器だというのです。土の器ですから、年代と共に割れたり欠けたりヒビが入ります。嫌われることを覚悟で書きますが、皆さんには、ヒビや欠けがありますでしょう。そういう器でも良いのか。良いのですね。むしろ、欠けや割れがあれば、光はそこから外へ洩れます。私たちの「欠け」や「ヒビ」を用いられるのが、主なのです。「誇る者は主を誇れ」大胆に主を誇ってゆく、そのような群れでありましょう。
 

2017年1月29日日曜日

1-29 雨と献花と看板



本日の献花です。そろそろ、チューリップの季節です。
一週間で、つぼみが花になるでしょうか、きっと咲くでしょう。
会員子息の誕生日を記念してささげられたお花です。



来週の説教題です。「必要不可欠なあなた」。

本日も徳山では礼拝が行われ、礼拝後には愛さんが行われました。
手製のラーメンでした。

今週の予定は以下の通りとなっています。

1/31(火)15:00 徳山 聖書を学ぶ会

2/2(木)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町教会礼拝

      19:30 六日市礼拝

2/5(日)10:45 徳山 礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書4章18節-22節】
宗教改革者ルターの功績の一つは、聖書の翻訳です。ヘブライ語、ギリシャ語の聖書をドイツ語に翻訳したことです。自分の使う言葉で聖書が読めるように、というのがルターの願いでした。ルターは、古語の「職業」を「天職」と翻訳しました。職業とは、天職という考えを持っていたのです。この職業観、私たちには納得し難いものかもしれません。

仕事のし甲斐、という壁に時に私たちはぶつかります。聖書の漁師たちも然りでした。当時の漁師たちは、生きがい、仕事のし甲斐というものに飢えていた。主が「新しい生きがい」をお与えになったのです。当時、ユダヤは植民地でした。一生懸命に漁業を営んでも、その収入は僅かでした。「人間をとる漁師」とはそんな彼らへの招きの言葉です。今までは同胞の腹を満たす働きに従事していた彼ら、主の弟子として、ローマに虐げられている同胞の心を満たす働きに魅力を感じ、弟子としての第一歩を踏み出したのです。

ところで、この漁師たちには個性があります。先読みのペトロ、烈火のヤコブとヨハネ、そして寡黙なアンデレ。しばしば失敗をする中で、これらの個性は満遍なく発揮されています。こういう人材が弟子になっても良かったのでしょうか。良いんですね。弟子としての基準、ハードル、を下げるために、主はあえてこのような人々を選んだのです。

福音書と使徒書とでは、明らかに弟子としての責任感や使命感に違いがあります。主の弟子時代は、気概が先に立って、行為は伴わない、そういう人々でした。けれど主は、漁師たちのそんな姿丸ごとを愛されたのです。主の意に添わぬ働きをしたとはいえ、破門、追放という手段は取らないのが主です。弟子たちは、そんな主の愛に徐々にその地の自分が変えられて行くのを感じ取ったことでしょう。主の愛は、私たちにも無論及ぶのです。
 


2017年1月22日日曜日

1/22 雪と教会と看板

 本日も教会には献花が為されました。感謝です。
 来週の礼拝の説教題です。

 こちらは牧師が普段通る、益田への道です。
 なんだか大変なことになっています。ちなみに
写真は「山口県道路情報カメラ」2017年1月24日 14時45分時点のものです。
写真は「山口県道路情報カメラ」2017年1月24日 14時45分時点のものです。
勇気ある車のわだちが見えます。もしこういう状況なら、私はここを通りませんで、
回り道をします。

本日も徳山では礼拝が行われ、礼拝後には愛さんが行われました。

今週の予定は以下の通りとなっています。

1/24(火)15:00 徳山 聖書を学ぶ会

1/26(木)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町教会礼拝

      19:30 六日市礼拝

1/29(日)10:45 徳山 礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書4章12節-17節】
「洗礼者ヨハネの逮捕を受けて主が退く」と聖書は冒頭語っています。文字通り読めば、師であり親族であるヨハネの捕縛を受けて、主も心を痛め、自身の身を案じ、身を隠すということです。身近の破局的出来事を前にした動揺は、私たちにはしばしば起こります。主もそうだったか。そうとも読める聖書に安心しますね。けれど、聖書はそれとは全く反対の意味も告げるのです。主は、心を痛めた処か、意気盛んに活動を始めたというのです。

この時ヨハネの逮捕命令を出したのはヘロデ王です。ヘロデ大王の息子の一人です。だがこの息子ヘロデは父の剛腕は継がず、どうでも良い腕のみを継ぐのです。何と、兄弟の妻に惚れる。欲した息子ヘロデは、ヨハネに諫められます。煩いので逮捕したのです。息子ヘロデが父から継承した領土がガリラヤでした。主がヨハネの逮捕を受けて、退いたのはヘロデの本拠地ガリラヤということです。ヘロデを恐れての隠遁なら、別の地に身を移すはずですね。それをしない、ということは、逃亡でないのです。主はこの時までヨハネの手伝いをしていたが、逮捕後、主独自の活動を始めるためにガリラヤに来たのです。それが「神の国」運動でした。

およそ宗教とは、人が神的なものに近づくことを旨とします。だが主は、人が神に近づくのでない、神が人に近づくという意味の「神の国」接近を語る。人は、そのことを受けて自身を再考する。それはイザヤの預言に暗示されています。光が与えられたのです。

その場所はカファルナウムでした。主はこの町で、漁師たちを弟子とし、一人の弟子ペトロの姑が熱病を患えば彼女をも癒し、神のみ教えを平易に語ります。それほど多くの恵みがあっても、この町の人々や弟子たちはだらしなかった。主もやがてこの町を叱る。それでも主は忍耐し、弟子をも捨てず、遂にはご自身を捧げました。主の忍耐は私たちと共にある。